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石原 俊 教授(専攻 歴史社会学、島嶼社会論、グローバリゼーション論)

(1) 社会学とはどのような学問とお考えですか。

わたしたち自身が内属している社会を自己反省的に(reflexive)みる学問。日本語の翻訳社会学用語を使っていえば、社会を再帰的に(reflexive)捉えようとする学問です。

しかし、ひとくちに対象が社会であるといっても、社会学が扱う社会には一定の領域があるような気がします。それが近代社会というやつです。ただしここでいう近代は、高校までの社会科とくに歴史の授業で習ってきた「近代」といささかニュアンスが違うことを、頭に入れておいてください。たぶんみなさんは、定期試験や入学試験のためにひたすら事件や年号を暗記してきたでしょうが、こうした暗記労働のために設定されている「近代」は、いってみればひとつの時期区分にすぎません。日本でいえば「明治維新から敗戦まで」というように(そして「敗戦から現在まで」が「現代」などと時期区分されるわけです)。

これに対して社会学が扱う近代社会とは、たんなる事件史的な時期区分なのではなく、ザックリいえば、強力なメカニズム(秩序・傾向)を備えたいくつかのシステム(の複合体)に、人類史上初めて世界中が巻き込まれてしまった社会のことです。たとえば、資本主義・国民国家・近代法・官僚制・近代家族・学校制度といった諸システムが思い浮かびます。この近代は英語でいうmodernに相当し、「現代」と時期区分される時代に生きているわたしたちをも、逃れがたい力で巻き込んでいるメカニズムを指しています(人文・社会科学でいうmodernの訳語は、「現代(的)」ではなく「近代(的)」です)。

したがって社会学とは、最大公約数的にいうならば、近代社会におけるさまざまなシステムのメカニズムや、そうしたメカニズムに翻弄されつつ、あるときはシステムに服属し、あるときはこれとわたりあいながら生きぬく人びとの生(活)のあり方を、再帰的に捉えようとする学問、となるでしょうか。

だが、ここでただちに留意しておきたいことがあります。近代的な社会システム、すなわちマックス・ヴェーバーという社会学の大家の言葉を借りていえば近代社会において「正当性」や「合理性」をもっている(とみなされる)諸システムは、けっして必然的に支配的になったのではありません。それは、西欧や北米などが牽引した18世紀以降の近代化のプロセスで、さまざまな歴史的偶然のなかでかなり恣意的に採用され(正当化され)、結果的に必然的であるかのように幅をきかせるようになった(合理化された)システムなのです。近代的な代議制民主主義・刑罰制度・福祉制度などは、いろんな要素がツギハギされて作られたシステムが正当化・合理化された事例の、さいたるものでしょう(こうしたツギハギの詳細に関心がある人は、たとえばミシェル・フーコーという人の著作がたくさん翻訳されているので、いくつか選んで読んでみましょう)。またツギハギであるからこそ、近代的な諸システムは、全面的に転覆・廃棄されることは難しいにしても、可変的なものでもあります。

なにより西欧というシステムの「中心」近くで生きていたヴェーバー自身が、偶然的に始動した近代的システムが必然化されるプロセスと、未来に起こるかもしれない近代システムの変容の条件を、再帰的な構えで考えぬいた人でした。わたしは社会学を学ぶみなさんに、こうした意味で「近代欧米」を相対化する視野をもってほしいと思っています。それは、現在にいたるまで「近代欧米」を模倣してきたこの「近代日本」を相対化し、再帰的に考えていく作業にもつながります。

 

(2) 先生が専攻されている、あるいは、この大学で学生に教えられている社会学とはどのような学問ですか。

さらに、みなさんに考えてほしいことがあります。18世紀以降に形成された近代的な諸システムが、そうしたシステム形成の牽引役とならなかった(なれなかった)世界の大部分の地域に生きる人びとにとって、どのような意味をもってきたのかということです。イマニュエル・ウォーラーステインという社会学者は、世界のなかで近代的なシステムの牽引役となったいくつかの地域を「中心」、そうならなかった諸地域を「周辺」と呼んでいます。そもそも近代的システムは、「中心」において形成された後、少しずつ平和裏に「周辺」領域に広がったわけではないのです。

たとえば西欧を「中心」とする主権国家システムは、アメリカ大陸やアフリカ大陸など「周辺」諸地域の土地をヨーロッパ出身者たちが取得することを「先占(prior occupation)」という法理によって正当化しましたが、このことは「周辺」の人びとにとっては端的に占領(occupation)による生活空間の強奪を意味していました。また資本主義システムのグローバルな展開は、ラテンアメリカ・アフリカ・アジアの「周辺」諸地域の多くを、「中心」に安価な資源や原材料を提供するモノカルチャー経済(単一または数種の食料・原材料生産に特化させられた従属的な経済体制)に貶めてきました。

すなわち近代とは、当初からグローバリゼーションとして現れてきたのであり、しかもそのグローバリゼーションは、「中心」領域の側が「周辺」化した領域の人びとをしばしば権力的・暴力的に統治したり収奪したりしながら、植民地主義的に展開してきたのです。

そして「近代欧米」を模倣した「近代日本」も、グローバルなシステム形成の波に<うまく乗っかる>ことによって、東アジア・東南アジア・西太平洋各地に対して植民地主義的にふるまう位置に立ってきました。

わたしの研究や教育も、以上のような問題意識を起点にしています。

現在のわたしの研究テーマは、19世紀から現代にいたるグローバルリゼーションのプロセスで、海洋世界や島嶼社会を拠点に生きる人びとが、世界市場・主権国家・国民国家・近代法など近代的な諸システムの力に巻き込まれ「周辺」化されながらも、海に開かれた生活実践を組み換えつつどのように生きぬいてきたのかを、文献資料調査とインタヴュー調査に基づいて叙述・考察することにあります。また、そうした市場・国家・法などの<波打ち際>で生きる人びとの経験を捉えるための、社会理論についても考えています。これまでの狭い意味での研究対象は、近代日本国家に併合され「南島」「南洋」などと呼ばれてきた島嶼社会に属する、小笠原諸島・硫黄諸島(火山列島)・沖縄諸島とその関係諸地域です。

そのほか副業的な仕事として、現代日本社会の歴史的な位相を、ポストコロニアル状況、ポスト冷戦状況、グローバリゼーションといった観点から解剖するという、一種の時事評論的な作業も行っています。

この世界で初めて植民地主義的な開発や収奪が遍在化したのは、クリストバル・コロン(いわゆるコロンブス)の「アメリカ発見」に始まるグローバリゼーションのプロセスにおいてでした。この植民地主義的なグローバリゼーションは、世界市場・資本主義・帝国主義・主権国家・国民国家・植民地帝国といった近代的な諸システムに支えられ、世界の不平等化・非対称化を進めていきます。

そのため、わたしの講義科目や演習科目は最初の数ヶ月間、歴史社会学的な観点から、グローバリゼーションに伴う植民地主義の展開がいかなる問題をもたらしてきたのかについて、またその前線に置かれた人びとが近代的な諸システムとどのように格闘してきたのかに関して、狭義の「経済」的要因にとどまらない政治的・文化的要因などの輻輳に目配りしつつ、いくつかの地域的事例と理論的視点を往復しながら、じっくり学習する作業に費やされます。

そうした基礎的な思考訓練を経たうえで、植民地帝国が表面的には崩壊した後の現代世界において、なぜ世界の不平等化や非対象化がかえって進行し、暴力が一向になくならないのかについて、ポストコロニアル・低強度戦争・グローバリズムといった理論的概念の助けを得ながら考えていくことになります。

(3) 1~2年次で読んで欲しい本

  1. 西澤晃彦/渋谷 望『社会学をつかむ』(有斐閣、2008) 巷に社会学の教科書はたくさんありますが、これだけ読みごたえのある教科書はなかなかないと思います。読者に安直な妥協をしていないので、大学1,2年生が読むにはしんどい箇所もあるかもしれませんが、文体はたいへん簡潔・明晰であり、みなさんが何を考えておくべきかの、ひとつの指針になるはずです。ちなみに、本学科教員である稲葉振一郎先生の『社会学入門――<多元化する時代>をどう捉えるか』(NHK出版、2009)は、大学3,4年生もしくは大学院修士課程の学生が、社会学「再」入門のためのテキストとして読むとよいでしょう。
  2. カール・マルクス『フランスにおける階級闘争――1848年から1850年まで』(大月書店国民文庫、訳1960)[→『マルクス=エンゲルス全集』7巻(大月書店、1961)に再録]、同『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(平凡社ライブラリー、訳[1996]2008) マルクスを「政治」論文から読み始めるのは意外かもしれませんが、入門にふさわしいとっつきやすさと、何度読み直しても読みごたえのある面白さを、兼ね備えた文章です。マルクスが30歳になる1848年から翌年にかけて、西欧で同時多発的に大規模な革命運動が起こります。みなさんはたぶん高校の世界史の授業で、この革命運動はブルジョワジー(土地・原材料・機械などを買い集めて産業を組織する役割を獲得した有産階級)の旧体制に対する「市民革命」だと教えられたはずです。しかし前者でマルクスは、この「市民革命」が実はプロレタリアート(生き延びるために自分の労働力以外なにも売るものをもたない無産階級の人びと)の闘争に支えられていたと喝破し、革命の過程でプロレタリアートの運動がブルジョワジーに裏切られ鎮圧されていく過程を憤怒とともに叙述しました。後者の著作は、プロレタリアートが排除された後、男性普通選挙制度に支えられたフランスの議会制民主主義が、ブルジョワジー諸派の代表を自任する政治集団間の抗争によって空洞化していき、やがて<意図せざる結果>としてルイ・ボナパルト(ナポレオンIII世)による帝制を呼び込んでしまう政治過程を、冷静に分析しています。前者の文庫版は絶版のため、インターネットから古本を手に入れるか、『マルクス=エンゲルス全集』(たいていどの大規模図書館にもある)を借りて読むとよいでしょう。
  3. 良知 力『青きドナウの乱痴気――ウィーン1848年』(平凡社ライブラリー、[1985]1993) 「契約」「派遣」などの不安定な雇用形態がこの国のメディアでも話題になって久しいですが、資本主義というものは原理的に、すべてのプロレタリアートがつねに安定的に賃労働者であり続けられるようにはできていません。資本の運動は、好不況や生産手段の改良状況(技術革新など)に応じて労働者として吸収したり失業者として放出したりできる「産業予備軍」を、つねに必要とするものだからです。こうした「産業予備軍」のなかで、さまざま都市雑業に従事しながら生計を立てており賃労働者への社会移動が最も困難な階級を、マルクスはとくに「ルンペン・プロレタリアート」という蔑称で分類しています。そしてマルクスは上記の著作で、1848年革命における「ルンペン・プロレタリアート」は、ブルジョワジーに買収され、大工場労働者を中核とするプロレタリアートの階級闘争を妨げる役割を果たした「反革命的」階級だと断罪しています。これに対して本書は、ヴィーンにおける48年革命の過程で最も持続的な闘争を展開したのは、マルクスの盟友エンゲルスが歴史の「進歩」の担い手になり得ない存在だと断じた「スラブ人」、具体的には東欧の農村で耕作地を追われ生存の条件を求めて都市周辺に流れついた名もない無数の「ルンペン・プロレタリアート」の人びとであったことを、活き活きとした歴史叙述によって浮き彫りにしていきます。著者がガンの進行とたたかいながら書いた(「あとがき」の脱稿は亡くなる半月前)、渾身の遺作です。同じ著者の『向こう岸からの世界史―― 一つの48年革命史論』(ちくま学芸文庫、[1978]1993)や『女が銃をとるまで 若きマルクスとその時代』(日本エディタースクール出版部、1986)も。
  4. マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、訳[1954]1989)、同『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』(未來社、訳[1936]1994) 説明するまでもない社会学の古典です。初期資本主義におけるブルジョワジーはどのような情動の回路に導かれて、絶えざる資本蓄積を<意図せざる結果>として駆動させたのかが、緻密にしかし大胆に分析されます。だがヴェーバーがこのおそるべき著作を書いていた世紀転換期(それはちょうど帝国主義全盛の時代でもありました)には、彼自身も述べているように、すでに資本蓄積の運動を駆動させた「世俗内禁欲のエートス」は表面的には消え去ってしまっており、資本の運動は植民地分割へと暴走し、西欧社会には彼のいうところの「享楽人」としてのブルジョワジーが跳梁跋扈していました。にもかかわらず、次の世紀転換期である現代の「ブルジョワジー」の情動のあり方(それはこんにち「プロレタリアート」の情動にも浸透してきています)について考える際にも、ヴェーバーの洞察が教えてくれることはすくなくありません。
  5. 安丸良夫『出口なお』(朝日新聞出版、[1977]1987)[→『出口なお――女性教祖と救済思想』(洋泉社MC新書、2009)で再刊→さらに『出口なお――女性教祖と救済思想』(岩波現代文庫、2013)でも再刊] 近代日本においておそらく最も特異な宗教家・思想家の評伝です。出口なおは、丹波(京都府中部の中山間地域)に生まれ育ち、日本の資本主義的システムが「地方」を巻き込むプロセスで収奪や貧困を生活者としてなめつくした一女性です。なおは「神がかり」を経て終末論的な宗教を創設し、「現人神」=天皇に代わる救世主として日本国家の諸システムを倒し、世界の根底的変革を成し遂げようとする思想にまで到達します。ちなみに個人的なことですが、なおの出身地である京都府綾部市は、わたしの母方の祖父の生地がある自治体であり、祖父と祖母が結婚後住み母を生んだ地である京都府亀岡市内の集落は、なおの娘婿の出口王仁三郎の生誕地であるというように、なぜかたまたま地縁があります(祖父母や母は信者でもなんでもありませんが)。同じ著者の『日本の近代化と民衆思想』(平凡社ライブラリー、[1985]1999)も。
  6. 松下竜一『暗闇の思想を――火電阻止運動の論理』(朝日新聞社、1974)[→『暗闇の思想を――火電阻止運動の論理』(社会思想社教養文庫、1985)に再録→さらに『松下竜一 その仕事<12>――暗闇の思想を』(河出書房新社、1999)に再録→さらに『暗闇の思想を/明神の小さな海岸にて』(影書房、2012)に再録] 隠れた名著です。文庫普及版を刊行した社会思想社が倒産し、再録した河出書房新社版も品切状態になり、書店では入手困難になっていましたが、2012年に続編の『明神の小さな海岸にて』も収録して影書房から再刊されました。2004年に亡くなった著者は、ほぼ終生を大分県中津市ですごした小説家でありルポライターであり社会運動家です。社会運動家といっても、おそらくみなさんが漠然とイメージするそれとは、かなり異なります。家業の豆腐屋をたたんで作家になった著者は(2008年に亡くなった緒形拳さん主演のTVドラマ『豆腐屋の四季』の原作者でもあります)、思わぬきっかけから、自らが住む周防灘沿岸の人びとの「いのちき」を守るために、「周防灘総合開発」の波のなかで九州電力がもくろむ火力発電所建設を阻止すべく、住民運動に身を投じます。大卒者でもなく互いに職業も異なる人びとが、「科学」を称する九電側の論理に抗するための学習サークルを<下から>作り上げることの意味、「開発」の波に乗っかりたい匿名の同郷人から家族に加えられる脅迫、一時金を手渡されて漁業権を放棄させられていく漁師たちとの関係など... 「大切なことは、自分はしろうとだからとても分かるはずはないとして『思考放棄』をしてはならぬということだ。」 「『私どもの生活は...中央の半分しかない所得でも得々として貧困の切実感がないかもしれない』......そうなのだ。それでいいじゃないか。」 本書からわたしたちが学ぶべきことの裾野はたいへん広い。とりわけ、2011年の福島第一原発のメルトダウンをきっかけに、電力会社が「科学」の名のもとに発する言葉がどれだけ人びとを欺いてきたのかが、誰の目にも露わになっていくなかで、本書の重要性はますます増しているといえるでしょう。
  7. 上原一慶/桐山 昇/高橋孝助/林 哲『東アジア近現代史 新版』(有斐閣、2015) まず「知る」ために読んでおくべき教科書です。2015年に新版が刊行され、冷戦後の記述が大幅に増補されました。東アジアは、世界市場・資本主義・主権国家・国民国家など歴史的に異なる時期に形成された近代的な諸システムが、19世紀半ばに一気に押し寄せた地域にあたります。そのなかで近代日本国家は、西欧産の社会システムを積極的に模倣して主権国家・国民国家の体裁を急速に整備し、資本主義的生産体制を養成し、さらに東アジアにおける近代システムの「中心」となるべく周囲の諸地域への植民地主義的介入を進めていきます。そのことが現在にいたるまで東アジアにどのような亀裂や葛藤を持ち込んだのかを、日本国家の内部で生きる者は知らねばなりません。より詳しく学びたい場合は、和田春樹ほか 編『岩波講座 東アジア近現代通史』全11巻(岩波書店、2010-2011)を手にとってください。
  8. 中野好夫/新崎盛暉『沖縄戦後史』(岩波新書、1976) 沖縄諸島は1870年代の近代日本帝国の形成期に占領・併合され、世紀転換期の日本資本主義の形成過程では糖業モノカルチャー経済に貶められて「周辺」化され、1920年代の糖業不況(沖縄では「ソテツ地獄」と呼ばれる)の後には大阪や東京への労働力の供給地として日本資本主義の発展に利用され、1940年代のアジア太平洋戦争では日米軍によって地上戦の場として利用され、戦闘に動員された多くの人びとが死にいたらされたあげく、敗戦後は日本国の(再)独立と引き換えに米国・米軍に貸与されました。本書の叙述はこの地点から始まります。ここで描かれている沖縄の「戦後史」でクローズアップされるのは、「民政」という名の実質的軍政を敷き、<銃剣とブルドーザー>によって住民の土地を接収して基地建設を進め、<基地依存経済>に住民を動員していく米軍統治に対する、沖縄の人びとの紆余曲折を経た長い闘争のプロセスです。しかしこの本を読む際には、米国の東アジア戦略に乗っかりつつ、冷戦の前線を沖縄そして台湾や朝鮮半島に押しつけることによって高度経済成長をとげた、この国=日本国の「戦後」のあり方こそが問い直されなければなりません。本書を読み始めて、その歴史的背景がわかりにくいと感じた人は、まず勝方=稲福恵子/前嵩西一馬 編『沖縄学入門――空腹の作法』(昭和堂、2010)に目を通すとよい。沖縄における地上戦については、林 博史『沖縄戦 強制された「集団自決」』(吉川弘文館、2009)が、現在の研究水準に基づいた説得性の高い論述となっています。1972年の日本国への施政権「返還」以降については、新崎盛暉『沖縄現代史 新版』(岩波新書、[1996]2005)を。また、櫻澤 誠『沖縄現代史――米国統治、本土復帰から「オール沖縄」まで』(中公新書、2015)は、最新の研究成果に基づく沖縄「戦後」通史として必読です。

(4) 3~4年次で読んで欲しい本

    年次で分ける意味をあまり感じませんので、1,2年生であっても(3)であげた文献の続きに読んだらいいものもあります。
  1. カール・マルクス『資本論――経済学批判』1~9分冊(大月書店国民文庫、訳[1953]1982) (3)-②③を読んだら、『資本論』に進んでみましょう。何度読み返しても必ず刺激が受けられる本です。しかし古典を読むことになれていないと、早くも序章から投げ出してしまいたくなるかもしれません。なぜなら『資本論』は読者にとって幸か不幸か、最も魅力的だが最も難解で論争的な、商品世界とりわけフェティシズム(物神性)/価値/労働の関係についての議論から、始まっているからです。投げ出したくなったら、たとえば廣松 渉『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書、1990)の助けを得てから、ふたたび『資本論』にもどるとよいかもしれません。この本のフェティシズム解釈には異論も寄せられていますが、なぜフェティシズム論がこれほどまで魅力的で論争的なのかがわかります。『資本論』は、すくなくとも原著第1巻相当(国民文庫版の訳書では第3分冊)までは通読しましょう。またマルクスの階級論については、次の事典に簡単な解説を書いているので読んでみてください(石原 俊「階級と階級闘争 カール・マルクス」日本社会学会事典編集委員会 編『社会学事典』丸善、2010、12-13頁)。
  2. ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』(書籍工房早山、訳[1987]2007) 資本主義システムのほかに、近代社会に生きるわたしたちを拘束しているネイション(国民・民族)のメカニズムを解き明かした書物です。ネイション(たとえば日本国民・日本民族・日本人)は昔から連綿と続いてきた共同体であるかのように意識されますが、せいぜい19世紀以降に大衆化した「想像の共同体」であるにすぎません。しかし、ヴェーバーのいう「合理化」「世俗化」「脱魔術化」を特徴とする近代化の過程で、「宗教的」で「非合理」にみえるネイション意識が、なぜ世界中にこれほど強力に定着したのでしょうか。答えはここには書きませんが、この問いに対する説明はアンダーソンの洞察が最も冴える箇所です。原著が刊行されてからまだ四半世紀しか経っていないし、著者も存命ですが、早くも社会学や政治学の古典の位置を占めたと言っていいでしょう。本書を含むアンダーソンのネイション論については、次の教科書に解説を書いているので、ぜひ読んでみてください(石原 俊「国民国家の形成――ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』」井上 俊/伊藤公雄 編『社会学ベーシックス 9巻:政治・権力・公共性』世界思想社、2011、33-42頁)。また日本というネイションが、幕藩体制下の儒教的秩序や国学の「古代」イメージのなかから、何をどのように利用したり排除したりして形作られたのかについては、橋川文三『ナショナリズム――その神話と論理』(紀伊國屋書店、[1968]2005)をぜひ読んでください。
  3. マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波文庫、訳[1980]2010) 上記②を読んだら、この本にも目を通しましょう。資本主義やネイションのほかにもうひとつ、わたしたちを拘束している大きな力があります。それがステイト(国家)です。「国民国家」とよく言われますが、国民=ネイションと国家=ステイトは別々のメカニズムで動いています。これらを混同するような論調も目立ちますが、勘違いしないほうがいい。ヴェーバーは近代国家に関する有名な定義で、「国家はその域内において正当な物理的暴力行使の独占を要求する」と述べています。要するに「国民国家」とは、国民・民族(ネイション)という共同体の外縁が、暴力を独占しようとする国家(ステイト)という単位と一致しているべきだ、という強迫観念に導かれた、国家のひとつの歴史的形態として捉えるべきなのです。暴力についてさらに思考を深めたい人には、上野成利『思考のフロンティア 暴力』(岩波書店、2006)と酒井隆史『暴力の哲学』(河出書房新社、2004)がお勧めです。
  4. 米谷匡史『思考のフロンティア アジア/日本』(岩波書店、2006) (3)-⑦は現在の国境を過去に遡及的に適用するような叙述傾向が強かったわけですが、本書ではむしろもっと柔軟な歴史叙述が目指されています(ただし「柔軟」であることは、境界線が産み出す暴力を軽視するということではありません)。本書の目的は、著者自身に語ってもらうのがいちばんいいでしょう。 「『アジア』が自ら『発展』を求めて動きはじめ、そこに『日本』が関与し、絡まりあう関係が形成されるなかで、どのような矛盾・葛藤が生じるのか、そこには『近代』の暴力がいかに現れるのかを、批判的に分析していかねばなりません。」 「東アジアの現実は、近現代の帝国主義・植民地主義、そして冷戦期の分断がうみだした、さまざまな摩擦と亀裂が幾重にも刻印された場なのです。」 本書と併せて、やや大部だが、道場親信『占領と平和――<戦後>という経験』(青土社、2005)も読んでほしい。
  5. 冨山一郎『近代日本社会と「沖縄人」――「日本人」になるということ』(日本経済評論社、1990) 先に述べたように、沖縄諸島は日本資本主義の形成過程で糖業モノカルチャー経済に貶められて「周辺」化されましたが、1920年代の糖業不況によって大阪や東京へ多くの人びとが仕事を求めて移住していきました。しかし、沖縄の人びとにとって近代的な賃労働者になるという回路は、「日本人」になるという回路と、不可分に結びついていました。そしてかれらにとって近代的労働者=「日本人」になるということは、日本社会のなかで「沖縄(文化)」とみなされうるものを自ら捨て去っていく、日々の不断のいとなみを意味していました。こうして、「方言」「毛遊(もーあし)び」「蛇皮線(サンシン)」といった「遅れた沖縄文化」と名指されるものを払拭することによって積極的に「日本人」になろうとする意識が、沖縄住民や沖縄出身者の身体に内面化されていきます。また、杉原 達『越境する民――近代大阪の朝鮮人史研究』(新幹社、1999)も名著なので、ぜひ読んでほしい。地上戦後の沖縄に関しては、(3)-⑧を読んだ後、中野敏男ほか 編『沖縄の占領と日本の復興――植民地主義はいかに継続したか』(青弓社、2006)に進んでください。
  6. ロルフ・ユッセラー『戦争サービス業――民間軍事会社が民主主義を蝕む』(日本経済評論社、訳2008) 軍事(戦争)と警察の民営化は、主権国家・国民国家システムの21世紀的形態です。現代世界で暗躍する「軍事サービス会社」のクライエントは、主権国家はもちろんのこと、国連などの国際機関から、開発援助NGOや人道支援NGOにまで及びます。また「軍事サービス会社」の役割は、たんなる正規軍の防御・攻撃のアシストだけではありません。軍人を訓練するなど正規軍を作り上げる業務にまで及びます。活動地域も中東やアフリカから「先進国」まで、コンピュータ・ネットワークに支えられてグローバルに展開しています。イラクを大混乱に陥れたあの戦争も、米英軍は「軍事サービス会社」の存在なくしては遂行できなかったといわれています。最大の問題は、「軍事サービス会社」に委託される業務が、主権国家の軍事行動に関してはわずかであれ残る法的責任からも、完全に逃れられるということです。そして、イラク戦争や南スーダン戦争に派遣されアフガン戦争の兵站業務を担ってきた「軍隊」=自衛隊を擁するこの国のもとで暮らす大多数の人びとは、戦争の民営化の現状やそれがもたらす問題について何も知りません。これこそが深刻な問題です。
  7. レナート・ロザルド『文化と真実――社会分析の再構築』(日本エディタースクール出版部、訳1998) 他人の痛みが「わかる」「共感する」とはどういうことか。社会や文化を観察し記録し発信することには、どのような危うさと可能性があるのか。「社会調査士」資格を取りたいと思っている人には必読書です。次の事典にこの本の解説を書いているので、読んでみてください。自分で最も気に入っている文章の一つです(石原 俊「レナート・ロザルド『文化と真実』」小松和彦ほか 編『文化人類学文献事典』弘文堂、2004、283頁)。

(5) 先生の代表的な著書または論文を二つか三つ教えてください。

  1. 『<群島>の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』(単著:弘文堂、現代社会ライブラリー12、2013年) 東京都心の約1,000km南方の北西太平洋に浮かぶ小笠原諸島(Bonin Islands)と、そのさらに南方約250kmに浮かぶ硫黄諸島(火山列島/Volcano Islands)。現在はどちらも「日本国東京都」に属するこれらの<小さな>群島は、日本の辺境の島といった観点からは決定的に見落とされてしまう、とてつもなく<大きな>世界史的背景をもっています。本書はこれらの群島の眼から、海洋世界のグローバリゼーションとりわけ環/間太平洋世界(Trans-Pacific World)の200年の近代を描きなおそうとする、歴史社会学/社会史の試みです。 残念なことですが、現在の日本では、かなり偏狭なナショナリズムやレイシズムが高まっています。「島」といえばすぐに国境(紛争)や領土(問題)・領海(問題)といった言葉ばかりを思い浮かべるような人たちも、少なくありません。しかしわたしは、そういう「日本人」にこそ、本書を読んでもらいたいと思っています。 本書でわたしは、近代国家の中心からみた国境・領土・領海といった枠組みからは決定的に取りこぼされてしまう、別の歴史性・空間性を描こうとしました。<群島と海>の眼から、グローバリゼーションや国民国家そして近代世界そのものを描き直す作業こそが、いま「島」をめぐって繰り広げられている偏狭なナショナリズムやレイシズムをときほぐしていく糸口になると考えているからです。 安価(税別定価1,400円)かつ軽量(総202頁)で、学部生でも十分読み通せる内容・文体になっているので、みなさんもぜひ手にとってみてください。石原の講義科目「グローバリゼーション論」「ポストコロニアル論」では、テキストとして使用予定です。
  2. 『殺すこと/殺されることへの感度――2009年からみる日本社会のゆくえ』(単著:東信堂、2010年) 2009年に1年間、『週刊読書人』の「論潮」(論壇時評)コーナーの連載を担当しましたが、その内容を元にした現代日本社会論です。 わたしが論壇時評を担当した2009年は、世界金融危機や日本の自民党から民主党への政権交代など、日本社会をめぐる制度や秩序の変容を象徴する出来事が起こり、生成や崩壊の過程にあるものの歴史的位相について、かなり視界が良い年でした。具体的には、ジャーナリズム、新保守主義、労働と貧困、臓器移植、新しい戦争、外国人管理、沖縄問題、ポストコロニアル、ポスト冷戦など、きわめて現代的なトピックについて論じていますが、底流しているモチーフはむしろ、歴史的経験に謙虚たれということだと思っています。 みなさん大学生が日本社会をグローバルな文脈から捉える手助けとすべく、「5年程度は使えるブックレット」を目指して、元の連載の原稿を大幅に加筆修正して刊行しました。この本で書いたかなり冷徹な(やや悲観的な)将来展望は、残念なことに多くの論点に関して<当たってしまった>といわざるをえません。約1,000円で総100ページと大学生のみなさんにとって手ごろなので、ぜひ手にとってみてください。
  3. 『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』(単著:平凡社、2007年) 第7回日本社会学会奨励賞(2008年)受賞作です。 小笠原諸島が2011年に世界自然遺産に登録されたことをきっかけに、その「美しい海」「珍しい動植物」はマスメディアを介して急激に有名になりました。しかし日本のマスメディアは、この群島とそこで生きてきた人びとがどのような歴史的経験をたどってきたのかについて、正面から取り上げることはほとんどありませんでした。小笠原諸島は、日本帝国の形成過程で北海道や沖縄諸島などとともにいち早く占領・併合の対象となり、アジア太平洋戦争では沖縄などとともに軍事的前線として利用され、敗戦後は米軍の占領下に置かれることになった群島です。 本書は、小笠原諸島が日本帝国に併合される以前に世界各地(欧米大陸や太平洋諸島・インド洋諸島・大西洋諸島など)から船に乗ってこの群島にたどり着き、のちに日本帝国によって臣民=国民として帰化させられた、出身地も経歴も雑多な人びと(とその子孫)を主な対象にしています。かれら<移動民>(の子孫)が世界市場の動向や国家の法に翻弄されながら、<群島と海>を拠点に19世紀から現在に至るまでどのように生きぬいてきたのかを、文献資料とインタヴュー・データに基づいて叙述・考察しています。 少々分厚い本ですが、小笠原諸島という一地域の近代経験を定点観測したモノグラフであると同時に、他方で<研究者以外の人も読める本><関心に応じてどの章からでも読める本>にしようと工夫して書いたつもりです。読んでみてください。
  4. 『戦争社会学の構想――制度・体験・メディア』(共編著:福間良明/野上 元/蘭 信三/石原 俊 編、勉誠出版、2013年) わたしが2013年度まで運営委員を務めていた準学会組織「戦争社会学研究会」を母体とする論文集です。「総力戦」から「冷戦」、「新しい戦争」まで、<戦争と社会>にかかわる幅広い領域の論考から構成されています。 収録された18本の論考(コラム・講演録を含む)の執筆者は、「戦中派」の社会学者である森岡清美先生(1920年代生まれ)、日本の軍事社会学のパイオニアである高橋三郎先生(1930年代生まれ)といった大家の先生方から、1980年代生まれの若手の社会学者まで、最大50歳以上の差という、じつに幅広い世代にわたっています。 論考の内容は、軍隊組織、戦時動員、兵士の戦争体験、戦時性暴力、引揚げ、戦場体験とトラウマ、戦死者表象と慰霊、戦跡観光、戦争とメディア、戦争とジェンダー/セクシュアリティ、軍事占領・軍事基地問題、対テロ戦争といった、広範なテーマにおよんでいます。 税別定価6,000円と学生のみなさんにはやや高価ですが、図書館などで手にとってみてください。
  5. ほかに次のようなものがあります。数が多くなりますが、比較的近年に書いた文章で大学生のみなさんが読みやすそうなものを中心にあげてみました。

  6. 『戦争社会学ブックガイド――現代世界を読み解く132冊』(共著:野上 元/福間良明 編、創元社、2012年)
  7. 『社会学ベーシックス 9巻――政治・権力・公共性』(共著:井上 俊/伊藤公雄 編、世界思想社、2011年)
  8. 『社会学入門』(共著:塩原良和/竹ノ下弘久 編、弘文堂、2010年)
  9. 『21世紀を生き抜くためのブックガイド――新自由主義とナショナリズムに抗して』(共著:岩崎 稔/本橋哲也 編、河出書房新社、2009年)
  10. 『グローバリゼーションと植民地主義』(共著:西川長夫/高橋秀寿 編、人文書院、2009年)
  11. 「解除されない強制疎開――「戦後70年」の硫黄島旧島民」『現代思想』43巻12号、青土社、2015年)
  12. 「大学の<自治>の何を守るのか――あるいは<自由>の再構築にむけて」(『現代思想』42巻14号、青土社、2014年)
  13. 「〈島〉をめぐる方法の苦闘――同時代史とわたりあう宮本常一」(『現代思想』39巻15号、青土社、2011年)
  14. 「戦争機械/女の交換/資本主義国家――ノマドとレヴィ=ストロース」(『KAWADE 道の手帖 レヴィ=ストロース――入門のために』河出書房新社、2010年)