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水谷 史男 教授(専攻 職業社会学)

(1) 社会学とはどのような学問とお考えですか。

まず「学校のお勉強」ということを最初から考えてみます。たとえば、英語を初めて習うとき、まずa,b,cとアルファベットの字とその読み方をおぼえ、これを組み合わせて単語をおぼえていく。次にどういう順番で単語を並べれば、文ができ表現になるか規則を教わるでしょう。それで何か意味のある文が話せたら嬉しい。だんだん難しい言葉も知る。なにかを新しく知るというのは、自分の視野と知識が増えていく楽しい経験ですね。

しかし、それだけでは「知る」「おぼえる」だけで、「考える」ところまでいかない。思考するには別の訓練が要ります。高校までの勉強では、教科書があって教わる内容がおよそ決まっていて、その中で「考える」練習もしますが、「おぼえる」ことに夢中だとちゃんと考える余裕がない。数学なんかは「考える」訓練ですが、早く正解を出すクイズみたいに思うと点数ばかり気になって「考え」なくなる。大学の勉強の中心は自分の頭で「考える」力をつけることです。「知る」「おぼえる」はもう自分で必要なときに、探せればいい。高校までで「探す」能力はすでについているはずです。そこで社会学は、どうやって「考える」か。

ぼくたちが生きているこの世界では、いつも色々なことが起きていて、色々な人間が色々な考えをもち行動しています。それを社会だとしておくと、どうしてこんなことが起きているのか、どうしてこの人たちはこんな行動をし、何をしようとしているのか。それを説明するためには、まず出来事の姿をつかみ、そこにいる人たちの意図や行動を追いかけて、その意味を「考える」必要がある。しかし、社会というのはいつも動いて変化していて、簡単には捕まえられない。そこで、社会学はたぶんこうやって「考える」のだと思います。

対象を絞り込み、視点を決める。写真を撮る時と同じです。なんとなく全部を見るなんて何も見ないのと同じだからです。次に撮った写真をじっと見て、何が写っているかを分析する。分析というのは要素に分解することです。人間の顔なら、目や鼻や口などの要素からできていて、それらがどう組み合わさっているかを「考える」。いろんな顔を比較すると、なにかそこに規則のようなものが発見できるかもしれない。あるいは人々の行動の背後にあるものに気がつくかもしれない。対象をじっと見つめて「考える」ということは、普通の生活ではあまりやらないでもすむことですが、学問というのはこれが命なんですね。これは社会学に限ったやり方ではありませんが、とにかくそうやって「考える」力を養うのが社会学なんだとぼくは思います。

(2) 先生が専攻されている、あるいは、この大学で学生に教えられている社会学とはどのような学問ですか。

ぼくが授業で担当してきたのは「社会調査」に関する科目です。「社会調査」というのは、社会学が目の前の社会を捕まえるための道具のようなもので、その使い方を講義していることになります。実際に学生諸君と一緒に調査をする「社会調査実習」という科目もあります。しかし、ぼくは「社会調査」を研究しているのではなくて、自分の研究テーマはおもに職業とか労働という問題です。それで、ちょっと余談をすれば、今日本の大学は「グローバル化する世界」に立ちむかえる若者を養成するために、大きな改革が必要だといわれています。文部科学省あたりは、その改革の方向として授業は英語でやれとか、どんな成果が出たか点検し点数化しろとか、時代遅れで役に立たない学部学科や努力の足りない大学は廃止しようとか言っています。この「役に立たない学部」というのは具体的には、なんでしょう。

大学入試情報的には、まず「文系‐理系」では文系、文系でも「人文系‐社会系‐教育系‐国際系」などと別れていますが、すぐ役に立ちそうもなく就職も悪そうなイメージの文学系・芸術系、あるいは少子化で需要が減る教員養成系は、廃止の候補(国立大学の場合ですが)になっている。これに比べればつぶしのききそうな法学系や経済経営系はまだ大丈夫、と思うかもしれませんが、ここは学生が多くだぶついている。大学のリストラはすぐそこまで迫っています。では、社会学科はどうでしょう。「役に立つ学科」でしょうか?

社会学を勉強すると、とりあえず何か役に立つでしょうか?もっと露骨に卒業しても就職できるでしょうか?答えは、さあ?何ともいえません。しかし、ぼくは文科省が考える「役に立つ学問」が実はあまり役に立たないだろうと思っています。理系でも、物理学や化学の先端分野で莫大な資金を投下しても、「役に立つ」結果が出るかどうかはあてにならない。少なくとも10年くらいはやってみないとわからない。科学研究とはそういうもので、その基礎になる人材は養成する必要がありますが、短期で結果の出る技術を初心者に教え込んでも、すぐ陳腐化する。そして何より、大学が教えるリベラル・アーツ(教養)の価値をまったくわかっていない。

たとえば英文学科でシェークスピアを読んで何の役に立つんだ、と考える人は、ロンドンでビジネス英語が話せれば用が済むと思っている。しかし、普通に教養あるイギリス人ビジネスパースンなら、シェークスピアの主要作品の台詞くらい知っている。日本から来た人間と会話するのに、商売とお金の計算しか関心がなく日本の古典文学の知識は皆無な人より、シェークスピアの作品について何かを語れる日本人の方を信頼できるに決まっているのです。社会学という学問は、やたら幅広くなんでも対象にしてしまうので、ある意味「教養の権化」みたいに思われますが、その方法を身に着ければ「教養の先」まで行かれる勉強になり、20年くらい経ってから「ああ、役に立ったな」と思うはずです。

(3) 1~2年次で読んで欲しい本

  1. 『メタボラ』(桐野夏生 上・下巻 朝日文庫 2010) 小説やドラマは作家が文章で書いたもので、現実に起きた事件や実在の人間をモデルにすることもありますが、当然事実をありのままに描いたものではありません。でも優れた小説を読むと読者は思わず、それが実際にあったことのように錯覚して読んでしまう。この小説は2005年から2006年にかけて朝日新聞に連載された作品で、記憶を失って気がついたら沖縄本島にいた若い男の物語です。まったくの創作で、作者はある意図のもとに、主人公ともうひとりの若い男のユルく過酷な旅を追っていきます。連載当時、フリーター問題や「格差社会」という言葉が話題になり始めていて、製造業派遣労働に従事する若者がいることに注目が集まりました。
    またこの小説の舞台である沖縄は、統計上日本で高失業率と低賃金が顕著な地域です。小説という表現のメリットは、そういう現実を外側から眺めるのではなく当事者の内側から、統計数字や理論から説明するのではなく個人の行動や心理から描こうとする点です。でも、同時にそこに描かれる個人はある特殊な事例、しばしば極端に誇張された姿で描かれます。作家はそこに力を込めて、ユニークな個性を際立たせているのです。そういうことを考えながら、この物語を面白いと思ったら、それが社会学の始まりです。
  2. 『坂の上の雲』1~6(司馬遼太郎 文春文庫 原著1962~1972) 社会学を勉強するうえで一番おろそかになるのが、歴史的文脈です。少なくとも過去100年くらいの歴史を知らないと、社会は理解できないと思います。とくに、日本の現代社会を理解するには、明治維新という社会変動を具体的に知っているかどうかが、決定的に重要です。この小説の主人公は、幕末に生まれた伊予(今の愛媛県)出身の正岡子規、秋山好古、秋山真之という3人の青年です。維新の負け組松山藩から東京に出た彼らが明治という時代をどう生きたか、そしてクライマックスは日露戦争。この物語は成功したビジネスマンや保守政治家が大好きな愛読書に必ずあげる小説で、ずっと日本が上り坂を駆け上がった栄光の物語として読まれてきたのです。
    最近NHKが連続TVドラマにして、また話題になりましたが喜ぶのはオジさんおジイさんばかりで、若者や女性にはいまいち受けなかった。亡くなった司馬遼太郎は、これを映画やTVドラマにするのは断ったそうです。主人公が武将や実業家ではなく帝国軍人だったことで、軍隊と国家賛美の側面だけが読まれることをおそれたと思われます。この小説をよく読むと日本の軍隊という近代組織の致命的な欠点も書かれていて、日露戦争の勝利がどのようなものであったのか、別の読み方もできます。その後の世界の中で日本を考えるよい材料になります。これも、ほぼ同じ時代を扱った石光真清『城下の人』に始まる4巻の手記(中公文庫)や江川達也のマンガ『日露戦争物語』22巻(小学館、ちょっと海軍オタクで問題が多いが)と合わせて読むことをおススメしたい。
  3. 『無縁社会の正体 血縁・地縁・社縁はいかに崩壊したか』(橘木俊詔 PHP研究所 2011) われわれが生きているこの社会がどういうものか、メディアは常に単純で分かりやすい言葉で人々に印象付けようとします。日本ではだいたい4年から5年くらいで「流行用語」(流行語よりはもうちっと長持ちするキーワードをこう呼んでみます)が移り変わります。若者の労働をめぐる流行用語も、20世紀末は「フリーター」これに続く「ニート」、そして「婚活」や「勝ち組負け組」、リーマン・ショックで「格差社会」。はじめは一部で使われたものが一気に一般化しました。これらの言葉には社会学者が発案したものもありますが、テレビで使われると本来の定義を離れて流行用語になります。 この「無縁社会」はNHKが言い出して、今あちこちで使われています。きっかけは独り暮らしの人が、家族にすら知られずに死んでいた、という事件です。以前から独居高齢者の孤独死はあったのですが、2010年夏にとっくの昔に亡くなっていた人が戸籍上生きていたという事実が大量に出たことと、高齢者だけでなく中年や若者すら社会関係を失って孤独死している、という衝撃的事実を「無縁社会」という言葉でアピールしたのがヒットしたのです。
    この著者は「格差社会」をデータで裏付けて有名になった経済学者ですが、今度は無縁社会を得意の統計データを駆使して説明しています。社会学者としては、ここからさらに進んで社会的ネットワークの希薄化、という命題をちゃんと実証する作業が要請されます。流行用語は10年もすると手垢がついて、現実とのズレが出てきて今度はみんな使わなくなります。ぼくはむしろ、そうした流行用語が設定した言説の場が何であったのかの方に興味がありますが、学生諸君にはとりあえず流行語にただ乗りするのではなく、データを読んで問題の焦点を確認して欲しいのです。
  4. 『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(高田里惠子 中公新書1955 2008) ぼくはそ~と~面白い本だと思いましたが、若い人にはちょっと文脈がわからないだろうから、同じ著者の『グロテスクな教養』(ちくま新書539、2005年)の方から読んでもらう方がよいでしょう。今は遠い昔話ですが、日本がアメリカ・イギリス等を相手に戦争をした時代、長引く戦争で兵隊が足りなくなって、当時の高学歴学校エリート、つまり大学生や大学の若手教員まで軍隊に徴兵されたという事実があるわけです。軍隊では学歴は関係なし、すべて同じ兵隊で基本平等なんで、逆にインテリ兵士は小学校卒の上官にひどくいじめられた。学歴社会が逆転し、歯が折れるほど殴られた。その典型が東大法学部で輝く政治学者、戦後知識人の代表丸山真男。
    日本という社会の「低い暗部」で蠢くインテリへの憎悪。同じ軍国主義でもドイツやイタリアではこんなことはなかった。戦争が終わると今度はインテリの黄金時代がやってくる。こういう時代に生きていなくてよかったあ!と思いますが、社会というのはなかなか面白いなあ、と実感します。日本の20世紀は「1代にして3世を生きる」というように、昭和の日本人は天国から地獄、地獄から天国、そしてまた不確実な現代を泣いたり笑ったりして生きたということを想像して欲しい。
  5. 『生き方の不平等―お互いさまの社会に向けて』(白波瀬佐和子 岩波新書1245 2010) 社会学の分野のひとつに、社会階層論というのがあります。いろんな研究をやっているのですが、基本テーマは社会の中で生きている人間の構造的な不平等がどうなっているかという視点です。自分が今いる社会の中で、自力では越えられない壁にぶちあたっていると感じた時、その原因を結局自分がダメな人間だから、と考えるのは「自己責任」の論理です。努力はしたがうまくいかないのは自分がダメだから、仕方がないという諦めです。確かに人間の能力には限界があり、誰だって人生順風万帆とばかりはいかない。でも、社会の現実は基本平等にできていない。どういう親の子に生まれるか、自分の家庭が経済的に恵まれているか、自分が能力や容姿において人より優れているか、試験や就活や恋愛や出会いのチャンスにおいて公平で平等なチャンスが与えられているか、を考えてみると明らかな不平等があることは事実です。それをただ恨んで嘆くのではなく、冷静に考えるのが社会階層論の出発点です。
    この本は、いまの日本で自分が「生き方」を選択するとき、年齢、性別、親の経済力といった自分の努力とは無関係の属性によってチャンスが異なるという現実について、データをもとに考察しています。そこからは当然、もっと平等な社会はどうしたら可能か、という問いにつながっていきます。それは「自己責任」の論理ではなく、社会的連帯、つまり「お互いさま」の論理を提起しています。
  6. 『羊の歌-わが回想-』(加藤周一 岩波新書 F96 1968) 加藤周一という人は、明治学院大学社会学科にも同姓同名の先生がいらっしゃいますが、別人です。周一さんの方は2008年末に89歳でお亡くなりになりました。医者で文芸評論家で語学の達人で世界に知られた戦後知識人の一人です。その著作はヨーロッパの言語に翻訳されて広く高い評価を受けています。お亡くなりになる最後にカソリックの洗礼を受け、明晰な知性と言論を活発に繰り広げた生涯でした。この本は加藤さんの幼少期から50歳ぐらいまでの自分の人生を振り返った印象深いエッセイで、ぼくは若い頃これを読んで世の中にはほんとうに優秀な人がいるのだ、と思い羨望と絶望を感じました。ドイツ語もフランス語も英語もすらすら読めて話せて書けて講義もできる。それだけなら世界には他にもたくさんいるでしょうが、血液や免疫の医学知識、日本や中国の古典から西洋のギリシャ、中世、そして現代文学まで、さらに美術や音楽、国際政治の突っ込んだ情報まで、ほとんどあらゆるジャンルを軽々と越えて、どんな話題を論じても確かに加藤周一がそこにいる。肩書がなく、何の専門家でもなく、ただ加藤周一。すげ~カッコええやん!
    ぼくには到底手の届かない境地ですが、こういう人がいる、ということは勇気を与えてくれました。どうしたらこんな人間ができるのか、それをこの本はごく個人的な回想として、告白してくれます。東京山の手の戦前の中産階級の生活、当時の一高、東大の雰囲気、大空襲と広島原爆の悲惨、戦後のパリの風景。ああ、加藤周一もぼくと同じ人間だったのか、ともう一度感動しました。とくに、父の実家、埼玉の旧家を訪ねた少年時の回想はまるで自分のことのように心に残りました。誰かに憧れる、というのは人生の糧です。
  7. 『歴史序説1~4』(イブン・ハルドゥーン 森本公誠訳 岩波文庫 2001) ハルドゥーンは1332年に北アフリカのチュニスに生まれたアラブ人の学者・思想家で、近代以前に政治・歴史・宗教を包括した「文明の学問」を樹ち立てた人として昔から西欧では有名でした。14世紀といえば日本は南北朝・足利義満の時代ですね。この「歴史序説」はアラビア語で書かれた偉大な著作といわれ、社会学の始祖をここに求める人もいるくらいですが、日本ではほとんど知られていません(聞いたこともなかったでしょ?)。最近、岩波文庫で翻訳が出ました。確かに読んでみると翻訳のせいもあるでしょうが、現代の社会学の本としてもじゅうぶん通用します。アラビア語の文はだいたい長いそうですが、節のタイトルがそのまま内容を示していてよくわかります。たとえば「田舎や砂漠の人々は都会の人々よりもより善良である」とか、「被征服民は物腰・服装・考え方などあらゆる風俗習慣について、征服民の様子を熱心に模倣しようとする」など、社会学の命題集そのものです。人間のやることなど時空を超えて似たようなものなのかもしれない、と思わせます。でも、その頃まだ十字軍なんかやっていたヨーロッパに比べると、イスラーム世界の知的レベルは遥かにすごい。イスラーム的なるものをよく知るためにはまず世界的な権威、井筒俊彦の『イスラーム文化 その根底にあるもの』(岩波文庫 青185-1 1991)を読むのが最高の近道。
    2011年ネットを通じてチュニジアに始まった北アフリカの政変は、エジプト、バーレーン、リビアと飛び火して新たな世界秩序を作りだすかもしれません。世界史の大きな変動は今はまだ行方もわかりませんが、日本の後追い成長戦略などぶっとばすほどの勢いになるでしょう。学生諸君は、目先の就活に一喜一憂するよりは、少々大風呂敷でも世界の行く末に目を注ぐ余裕をもって欲しい。
  8. 『暴走族のエスノグラフィー モードの反乱と文化の呪縛』(佐藤郁哉 新曜社 1984) これが書かれたのは1980年代なかば、今はもう昔といえば昔になってしまいましたが、週末の道路を戦闘服を着た派手なカッコウの集団が旗を立て、大きな音を出して走り回る「暴走族」と呼ばれる青少年が世間を騒がせていました。族同士が乱闘したり、警察と追っかけっこをしたりと市民に恐れられていましたが、若い社会学者佐藤氏は関西のある暴走族の集会に行って彼らと友達になり、参与観察というフィールドワーク調査をしてこれを書きました。暴走族のような存在を研究しようと思ったら、普通の方法、たとえばアンケート調査票なんかを配っても相手にしてくれません。警察につかまるような危険な行動を現場で観察しようとしたら、彼らの中に入って個人的に親しくなる他に生の声を聞くことはできない。なぜ暴走するのか、暴走族をやっている人たちはどんな生活をしているのか、彼らの間の人間関係はどうなっているのか、それは社会学としてはぜひ知りたいところです。
    社会学では、アウトローの研究、暴力団や犯罪者や違法な行動をする人たち、世間から恐がられ忌み嫌われる人たちを研究する分野が昔からありました。それは警察など取り締まる側の立場がもっている情報をもとに研究する方法が中心でしたが、それでは当事者の実態はほんとうは解らない。そこで参与観察が威力を発揮します。アウトローと仲良くなってインタビューしたり一定期間付き合う。彼らが何をしていて何を考えているのか、本音を聞く。もちろんこれは簡単ではないし、危険も伴う。親しくなれば愛情も湧いてきますが、客観性を失い違法行為に加担するおそれもある。そのへんが難しいところで誰もができるわけではないのですが、この本はその成功例として今も読まれています。
  9. 『啓蒙とは何か』(I・カント 原著1784 篠田英雄訳 岩波文庫 1950) 社会学の創始者はコント、こちらは大哲学者のインマニュエル・カント。最初の論文は12頁、15分で読めます。しかも冒頭の3ページでわかる人には感動的によくわかります。「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間みずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。」つまり私風に言えば、「大人になったって面倒っちいじゃん。親父の世界はオヤジに任せるからさ、ほっといてくれよ、気楽に生きてぇんだよ、俺は」という人間は、いつまでも子供でいたいという怠惰と怯懦のゆえに、精神の奴隷状態から抜け出せないのです。居心地の良い場所で人が自分のために何かをしてくれるのをただ待っている者は、自分でそのマイナスの一切の責任を引き受けなければならない、という厳しいご意見なのです。啓蒙は今なお出発点であり到達点でもある。
  10. 『自我論集』(S・フロイト 中山元訳 ちくま学芸文庫 1996) フロイトはウィーンで開業医をやりながら精神分析というものを始めた人ですが、人間の「深層」にある心の闇みたいなお話は、誰でもそういわれるとそうかもしれない、と思わせるので、今でも議論が絶えません。この中に「快感原則の彼岸」という論文がありますが、「快感原則」なんて言葉を聞くともうそれで何か解ったような気がしてきます。フロイトは面白い言葉をたくさん発明したので、「心理学」というのはこういうものかと誤解する人も後を絶ちませんが、精神分析と精神医学と心理学は、みんなかなり違います。似たような問題を扱っても全然違ったものの見方をするし、精神分析の中でも激しい対立があります。まずは読んでみて、ほんとかよ、と疑ってみることが大事です。

(4) 3~4年次で読んで欲しい本

  1. 『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫・萱野稔人 集英社文庫 0568A 2010) 日本の大手メディアは、いま日本経済が縮んでいる、政治はガタガタ、企業に元気がない、日本全体が衰退している、という大合唱です。ではどうすりゃいいのか?というとやっぱり経済成長しかない、昔のように経済成長すればすべて解決するというのが専門家の答えです。そこで成長戦略・景気回復の政策が立てられますが、全然効き目がない。大学生にとっては就職超氷河期で、3年生になったら真剣に就活をしないと失業者になるという恐怖のようなものが広がっています。大学の授業は単位が取れればOKで、就職にはもっと資格や特技を手っ取り早く身につける専門学校にでも通うか。これは正しい認識でしょうか?ぼくは学生にこう言います。世間の噂に煽られて不安になり焦っても、なにもいいことはない。今こそこの世界がどうなっているのかを見極めるべきだ。それにはまず世界経済に関する見通しについて知ることから始めるのが、大学生の王道だ。でも、ほとんどの学生は目先の利害に囚われて、物事の本質を見ようとしない。社会学の学生も例外ではない、というより社会学こそその答えを追及しているのに、学生はそんな余裕はなく勉強を放り出して就活に疲れている。この本は、2人の専門家が非常に手短かに、しかし何百年単位のとても大きな話をしています。いま世界に起きていることは、ただ数年間隔の景気変動などではないこと、経済成長さえすればいい、日本だけが自分だけが幸福になればいい、などということはもう現実に不可能なのだと論じています。こういうことを考えるのは、就活の疲れをふっ飛ばすでしょう。
  2. 『社会調査史のリテラシー 方法を読む社会学的想像力』(佐藤健二 新曜社 2011) 社会調査を教えているぼくが言うのはおかしいかもしれませんが、21世紀に入って20世紀後半に盛んに行われた不特定多数大量の人々をサンプルとした標本調査の手法は、現実的に行き詰ってしまいました。世論調査の数字は内閣の運命を左右するほど重視されるのに、その根拠は昔ほどあてになりません。統計的に無作為な方法で多様な人々から調査対象を選び出し、アンケート用紙を配ったり面接したりして答えを求め、それを数値化してコンピュータで統計ソフトを使って集計分析する、というのが客観的で科学的な社会調査なのだ、と教科書に書いてあります。理屈の上ではその通りなのですが、実際に名簿から無作為抽出しようとしても、まず個人情報保護のため名簿や台帳が手に入らない。手に入っても無作為に選んだ人に調査をしようとすると、アクセスできない。家に行っても会えないし入れてくれない。拒否や不能票が多くて回収率がどんどん下がる。もう昔のように調査にご協力下さい、といっても特別暇な人や好意的な人しか答えてくれない。それでは偏ったデータになって全体の縮図にならず信頼性が保てないのです。一方でグローバル化したネット情報は社会調査の方法を飛び越えて瞬時に広がる。さて、どうしよう?
    この本は、もう一度社会調査という方法を過去にさかのぼって見直し考えてみようという試みです。ぼくも自分なりに社会調査のリテラシーについて原理と歴史に遡って考えているところですが、これは多々参考になります。
  3. 『現実の社会的構成―知識社会学論考』(P・バーガー+T・ルックマン 山口節郎訳 新曜社 1977 新版2003) これももはや古典の域に入ってくる本ですが、知識社会学という用語は少々古くなってしまったので、翻訳を手直しして新版が出ています。われわれが見ている社会的現実、日常的な生活世界をどのようなものと人々が感じているのか、どうして人々はあることを意味のある形、リアリティとして捉えるのか、という問題は、社会学では長く議論されてきました。この本の立場は、それが社会的に構成されたものとして見る、というものです。構成とか構築とかというのはConstructionという言葉を訳したわけですが、たとえばある行為、ある状況の中で嘘をつくことが、良いことか悪いことかは一律には決まらない。ある場合には悪い行為ですが時には良い行為といえるかもしれない。それは状況と文脈次第ともいえますが、その判断基準は意識的または無意識的にすでに社会的に構成されている、あるいはその都度構築されている。普通はそんなことを考えなくても常識的に判断しているように見えるけれども、実は時代や空間や相手との制約の中で構成されている、と考えるわけです。そういう風に考えてみることが、社会についての思考の幅を大きく広げます。
  4. 『近代科学を越えて』(村上陽一郎 講談社学術文庫 1986) 近代科学の成果が、ぼくたちの生活に非常に役に立つということが明らかになったのは、18世紀から19世紀でした。それにはある独特の生活態度とものの見方が必要でした。この本は、それがかなり長い時間と天才的な人間の知的な活動を経て実現したということを明らかにしています。その方法は、やがて社会科学というものを成立させます。方法に自覚的になったり反省的になったりするのは、まず自分で何か研究してみた後です。先生から与えられた材料で指示されたままのやり方では、自分独自の結論を導き出せない。たとえば卒論を書くには、これが難しいのです。科学論というと自然科学を考えますが、実は社会学も科学論を必要とするのです。そしていまや近代科学への批判があふれています。でも、科学を批判するには、まず近代科学がどういうものかちゃんと理解していなくてはなりません。
  5. 『日本の人口問題と社会的現実』第Ⅱ巻モノグラフ編(若林敬子 東京農工大学出版会 2009) 今の大学生は気が短い人が多くて、てっとり早く教えてちょうだいという要求が出ます。テレビのクイズや情報番組みたいに、要点を素早く説明して5秒で答えが出るような知識が好まれます。試験でも途中のプロセスをすっ飛ばして答えは何なんですか?あ、間違っちゃったのね、で次へ行く。ネット社会はさらに、正解を瞬時にタダで手に入れる欲望に答えてくれると思わせ、昔のように本屋や図書館を探して本を読んで答えに辿り着く手間を消してしまいます。でも、学問というのは答えが簡単には出ない、答えがあるのかどうかもわからない、というような問題をじっくり考えることに価値があるのです。ハウツー本はそんな面倒なことは書かない。読者は10分、せめて1時間で答えが出る本を求める。でも、大学生のうちに一度は厚く長く1週間読み続けても終わらないような本を読んでみる経験は必要です。世の中には、10分で理解でき解決できるようなことなんか、ありはしないということが分かるからです。
    この本は、理論編とモノグラフ編の2巻あって、著者の若林さんは40年間日本の人口問題を追及して、日本中の過疎地、離島などで綿密な調査活動を続けてきた人です。この第Ⅱ巻にとりあげられている地域だけみても、奄美、五島列島、隠岐、粟島、佐渡などで何度も現地調査をし、農山漁村の実態と限界集落の問題を考え続けた集大成となっています。ひとつの問題を知り考えるだけでも人間が一生かけるだけの価値がある、ということを実感してください。
  6. 『思想としての社会学』(富永健一 新曜社 2011) 富永健一という人は、日本の戦後の社会学界を代表しリードしてきた人の一人です。もともとウェーバーやパーソンズの学説を研究し日本に本格導入しただけでなく、SSM階層研究などに道をつけ、社会指標などの実証的な仕事もありますが、理論家として一種の最後の集大成のようにして書かれたのがこの本です。それは19世紀初めの社会学草創期から現代まで、ヨーロッパとアメリカを中心に主要な社会理論家を網羅する形で大河ドラマのように論じられています。いちばん力が入っているのがやっぱりT・パーソンズの理論ですが、これと匹敵するくらいの重みでA・シュッツがとりあげられているのが、ちょっと驚きでした。かつてパーソンズの構造・機能主義、社会システム理論を20世紀社会学の正統な立場だとして、シュッツに始まる現象学的社会学を批判していたのが富永さんだったと思われていたからです。
    とりあえず社会学科の学生諸君には、社会学の基礎知識的な教科書を読んだら、現代社会学理論の潮流と太い幹を確認する意味で、この大きな本を読んでほしいと思います。
  7. 『犯罪と刑罰』(チェーザレ・ベッカリーア 小谷眞男訳 東京大学出版会 2011 原著1764) 犯罪というものは本質的に社会的なもので、それをどう扱うかもわれわれが作る社会が決めているのですが、普通は専門家が法律の枠内で考えるので自分が犯罪者にでもならない限り、他人事だと思ってるわけです。でも最近日本でも刑法犯の裁判員裁判が始まって、ぼくらが無関係だと思っていた法廷に出て重大な判決に関与する可能性が出てきました。場合によっては死刑判決もありうる。そこで、改めてこのイタリア語で書かれたベッカリーアの不朽の古典『犯罪と刑罰』が読み返される価値がある、ということで新しい翻訳が出ました。死刑廃止をめぐる議論に典型的に表れるように、凶悪な殺人犯への憎悪感情は理解できるとしても、私的報復を認めていたら秩序が崩壊し、国家権力が代行して死刑を執行するのは殺人を否定しながら殺人を行うという根本的矛盾に陥るわけです。前の法務大臣千葉景子さんは死刑廃止論者でありながら、この問題を喚起するためにあえて職務として死刑を執行し、その現場をメディアに公開しました。死刑執行の刑務官や戦場で戦う兵士は、まさに自分の手で人を殺すわけで、合法的だといっても平気でやれる仕事ではありません。法に基づいて国家が人の命を絶つ、ということの重みはいやでも犯罪と刑罰というものを真剣に考えさせます。死刑を認めている日本の現状に対して、改めてベッカリーアの考察は読む価値をもっています。
  8. 『現象学の視線 分散する理性』(鷲田清一 講談社学術文庫 1997 原著1989) 「現象学」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?ほんらいは20世紀の前半にドイツでエドムント・フッサールという哲学者が始めた難しそうな議論(もっと前の19世紀にもヘーゲルという哲学者が「精神現象学」という本を書いていますが、これは全然違った内容のもの)ですが、その後の哲学・思想の分野で大きな影響を与え続けて、社会学にとっても現在まで「現象学的社会学」などと呼ばれる流れに繋がったものです。「現象学」がどういうもので、何がそんなに問題なのか、学生諸君には難しそうでちょっと手が出そうもないと思うかもしれません。フッサールをぺらぺら覗いてみると、社会学とはおよそ無関係なことしか書いてないようにみえます。確かに「現象学的還元」だとか「超越論的主観性」だとか、読んでもなんの事だかわからない。でも、我慢して読んでみるとわれわれの普通に生きている世界からかけ離れた話をしているわけではないのです。ただ、いきなりフッサールやメルロ・ポンティの本はちょっと歯が立たない、という気がするのは無理はない。そこで、とりあえず日本語で分かりやすい入門書として、これはかなりお奨めです。社会学にとってひとつのキーワードは「日常性」とか「生活世界」英語でeveryday lifeとかドイツ語でLebensweltとかいわれる目の前の世界をどう捉えるかという視点です。手がかりが解れば、あとは社会学でも使えます。そこからアメリカに渡ったシュッツはあと一歩。やる気のある人は、これを読んでまあ頑張ってみてね。
  9. 『倫理学ノート』(清水幾太郎 講談社学術文庫2000、原著 岩波書店 1972) ぼくが社会学を学びはじめた頃に、一番強い印象を受けたのが出たばかりのこの本でした。冒頭の、「ケインズ、ロレンス、ムア」という章を読んだ時、何か頭の飛び切りよい貴族のやる抽象的で格調の高い学問という世界と、どろどろとした憎悪と欲望に生きる酒びたりの労働者階級の生活世界との間にある、越えられない深い河の存在と、にもかかわらずそれが奇跡的にスパークする瞬間を、清水幾太郎が「強い憤り」を込めてこういう形で表現していることに感動してしまったことを憶えています。この本をちゃんと理解するには、功利主義、近代経済学、倫理学、分析哲学、科学論など、そうとう幅広い知識が必要です。それは人間の幸福とか善悪とか正義とは何か?という究極の問題を考えるアルファでありオメガです。最後に付けられた余白という章、そして清水幾太郎が最後に辿り着く日本と天皇制への支持に対しては、多くの批判があります。でも、わからなくても一度読んで見てください。
  10. 『女性の歴史』上・下(高群逸枝 講談社文庫1972:原著1894~1964) 1960年代末に、アメリカのフェミニズム運動を学んだ少数の日本女性によって、新たな女性解放の思想が伝えられました。その中心にはアメリカに留学した女性の社会学者がいました。男中心にできていた当時の日本では、フェミニズムを語る女性は、「過激で反抗的な女」として激しい非難を浴びました。しかし、もっと昔から、日本の女は独自の文化と思想を育んでいたのだ、という雄大なテーマを粘り強く形にしたのが、明治27年に熊本に生まれこの本を書いた高群逸枝という女性です。この人の生涯自体が、ひとつのドラマですが、古代から現代までの日本の歴史全体を、女の女による女のための歴史として書き切った苦闘は、驚くべき仕事です。今の学生諸君は、女性解放などといっても何のことか解らない人が多いと思いますが、実は今もなお男と女の全体構造は少しも平等ではない。そのことに男の子も女の子も無自覚である限り、知らず知らず「社会」の暴虐に従属するほかなく「社会を変える」ことはできない、ということを「社会学」を勉強する人には知っていてほしい。

(5) 先生の代表的な著書または論文を二つか三つ教えてください。

    少し古いものからいくつかあげておきます。
  1. 『米田正太郎―退廃の文明・不遇の社会学』(生活研究同人会編『近代日本の生活研究―庶民生活を刻みとめた人々』光生館 1982) この本は、明治から昭和にかけて、生計費、生活改善、貧困、労働、福祉などの諸問題に、さまざまな角度から取り組んだ十五人の先駆者の仕事と生涯を書いたものです。私の担当したのは、関西の被差別部落からキリスト教をてがかりにアメリカ、そしてヨーロッパに渡り、ガブリエル・タルドに師事して帰国し、京都大学でフランスを中心とする当時の社会学を日本に紹介した米田正太郎のことを書いています。日本の社会学の草創期に、「東の建部、西の米田」と並び称され、高田保馬や山口正などを育てた社会学者ですが、その生涯は波乱に満ちたものでした。
  2. 『京阪神地域における出稼ぎ雇用』『出稼ぎと家計』(渡辺栄、羽田新編『出稼ぎの総合的研究』 東京大学出版会 1987) これは、日本の高度経済成長期に農漁村から大都市圏に大量の人々が季節的・一時的労働者として働きに来た「出稼ぎ」という労働形態を、20年間にわたって追跡調査した研究の報告です。「出稼ぎ」を出していた東北の農村と、それを雇用する東京首都圏の企業の調査からはじまり、関西から九州・北海道、そして沖縄まで、「出稼ぎ」に関わった当事者や関係者に調査をした結果をまとめたものです。東京育ちの私は、この研究のおかげで日本の過疎化する農村や漁村をずいぶん歩き回りました。この本で私が担当しているのは、京阪神の事業所調査と鹿児島県大隈半島の漁村の調査に関わる部分です。この経験が、書物を読んでいただけの私を社会調査というものに深入りさせるきっかけのひとつになりました。
  3. 『出郷の社会心理』ほか(水谷史男編著『暮らす人―結節と共生の社会心理』学文社 1995)  これは、人が生まれ育った場所から、就職・進学・結婚などさまざまな動機と偶然を契機に、遠く離れた場所へ移り住んで暮らしを始めるとき、どのようなことを思い、その背景に何があるのか、を世代を絡ませながら職業選択を中心に、歴史的に考えてみたものです。ここでは主に、高度経済成長にともなう日本国内の移動をとりあげていますが、私自身はその後さらに海外移民を含む人の移動というテーマに拡張しようと考えています。
  4. 『沖縄南米移民の動機と背景― 沖縄本島本部町における生活史的覚書』(水谷史男 『研究所年報』40号、明治学院大学社会学部付属研究所 2010.3)  この5年ほど、沖縄から南米に移民した人々とその家族の調査研究を続けています。とくに戦前から戦後の1960年代までに沖縄本島からアルゼンチンに移民として渡った人たちに、インタビューや調査票で当時の事情や現在の生活までを記録する作業を続けています。南米への日本人移民の歴史はすでに100年以上。もともと日本国内での「出稼ぎ労働」を研究していたことから、2008年にアルゼンチンにも行って、日系人の方たちにお話を聞いてきました。日系移民一世の方たちはもう高齢者で、今記録しておかないとさまざまな事実が歴史のかなたに消えてしまいます。この論文は、沖縄に戻ってきた方たちへの調査をもとに、日系社会とその現在についていくつか興味深い事実を述べています。社会調査実習として、学生諸君にも手伝ってもらったデータも盛り込んでいます。