明治学院大学社会学部MENU

加藤 秀一 教授(専攻 性現象論)

(1) 社会学とはどのような学問とお考えですか。

「社会学すること」はまず社会というものの存在に〈驚く〉ことから始まる。どこにもその姿は見えず、手で触ることもできないのに、社会と名づけられた何ものかは確かにそこにあって、いつのまにか、あなたの生に絡みついている。そこから逃げだそう、抵抗しようとしても、そうすること自体がもう社会によってかたちづくられた振る舞いである。それに気づき、驚き立ちすくむこと。――「ふっと手が空をつかみ、引き戻す/誰もいない」(ニューエスト・モデル「底なしの底」)

けれどもそれはただの出発点にすぎない。「社会学すること」の本質とは、社会という観念そのものを〈疑う〉ことにあるのだから。〈私〉をかたちづくり、あるいは呪縛する力の交錯に対して、根源的な疑問をつきつけること。なぜそれを「社会」と呼ぶのか。社会とは一つなのか、複数なのか、それとも不可算なのか。社会が個人をつくるのか、個人の集合が社会なのか。社会に境界はあるのか。その外部はあるのか。社会と国家との関係は。社会を成り立たせる秩序とは何か。殺し合いをすることは無秩序なのか。

こうした根源的な問いを忘れない人だけが、いわゆる現実の問題についての問い、すなわち〈社会の内部における問い〉を、真にエキサイティングなものにすることができる。「なぜ」と問うことなく、現実を知ることなどできない。なぜ戦争がなくならないのか。なぜ学校なんてものがあるのか。なぜ親が子どもを育てるのか。なぜモノを手に入れるのにお金がいるのか。なぜ金持ちと貧乏人がいるのか。なぜ人間には女と男がいるのか? 世界はまったく別のあり方をしていてもよかったはずなのに、その無数の可能性から一つだけが選ばれて、目の前の現実としてある。いったいそれはなぜなのか?

だがそのような問いはやがて、問う〈私〉に刃向かってくるだろう。私はなぜ社会を〈疑う〉のか? それもまた社会によって駆動された欲望なのではないか? 〈疑う〉ことが逆に社会をつくりあげ、安泰にさせているのではないか? ―― 一歩一歩問いを積み重ねて、その地点まで自分の足でたどり着いたなら、あなたはもう一流の〈社会学者〉である。そこに到る認識の旅の途上で、あなたはあなたの生にかかわる一切と、すなわち誕生や愛や性や死や、信頼や友情や契約や裏切りや、モノや言葉やビジョンや音楽や、そして「世界」や「私」や「知」のすべてと遭遇するはずだ。ぼく自身はといえば、まだ〈社会学〉の入り口付近でキョロキョロと辺りを見回している学生くずれにすぎないのだけれど。

(2) 先生が専攻されている、あるいは、この大学で学生に教えられている社会学とはどのような学問ですか。

 

「性現象論」すなわち「性別」(gender)と「性欲」(sexuality)とに関わるあらゆる現象をあらゆるレヴェルで分析しつくすこと。具体的には、「(5)代表的な著作」の題名から察してください。

(3) 1~2年次で読んで欲しい本

    まず何よりも、
  1. 『じみへん1~6』(中崎タツヤ 小学館、以後続刊中) を熟読すること。これを読んで一度も魂を震撼させられなかった人は、社会学には向いていないかも......。ついでに言えば、以下のブックガイドが役に立つのは、藤子・F・不二雄『藤子F不二雄 異色短編集(1~5)』小学館文庫)が心に澱のように溜まってしまう人、そして、大島弓子『ロングロングケーキ』(白泉社文庫)の表題作に世界の「すべて」が描かれていると感じてしまう、そういう人にとってだけかもしれない。
  2. 『祈りの海』(グレッグ・イーガン 早川文庫 2000) 現代SFの最高峰であるオーストラリアの作家の短編集。「私」とは何か。愛とは何か。宿命とはないか。自由はあるのか。神は妄想なのか。――ここに収められた傑作群を読むあいだ、こうした問いが途轍もないハイテンションであなたの頭脳を駆けめぐるだろう。そして考えることはなんとかっこよく、そして切ないことなのかと、ため息をつくはずだ。これで哲学的な議論に関心をもったら永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ちくま学芸文庫)へ、科学に関心をもったら⑥⑦へ飛ぼう。
  3. 『時間の比較社会学』(真木悠介 岩波書店 1981) 「時間」は私たちの生の最も根源的な条件である。そうだとすれば、それは解放の理論にとって究極の主題であるはずだ。本書は茫然とするほどの広い視野で近代的な「時間」という経験の成り立ちを解明した社会学の一つの到達点であり、おそらく同時にその限界を示してもいるように思われる。現在は岩波現代文庫で読める。同じ著者が別名義で同じ主題を変奏する見田宗介『宮沢賢治』(岩波現代文庫)や近著『社会学入門――人間と社会の未来』(岩波新書 2006)から入るのもいいだろう。
  4. 『単一民族神話の起源』(小熊英二 新曜社 1995) 日本、日本人と僕らは気軽に言う。しかしそんなものを見た人間は一人もいやしないのだ。それにもかかわらず民族国家という「想像の共同体」がいったん成立すれば、そこには「誕生=起源」の日付が後から書き込まれ、あたかも生き物のように、その歴史が語られる。本書は「日本人=単一民族」という神話とともに、それに対する紋切り型の批判をも別の膠着した神話として分析した好著。「日本」という言葉が使われるようになった古代からの歴史を見直す網野善彦『「日本」とは何か』(講談社 2000)、超管理社会としての江戸と自由人・葛飾北斎の闘いを描いた櫻井進『江戸の無意識』(講談社現代新書 1991)も併せて読むとよいだろう。
  5. 『怪獣使いと少年』(切通理作 宝島社 1993) ウルトラ・シリーズ、それはぼくらが初めて知った〈未来〉の廃虚であり、廃虚における〈未来〉の幻像だった。泥の中でのたうちまわるジャミラの断末魔に僕らは絶望を見なかった。なぜならすでに希望を学んではいなかったのだから。生まれ落ちたことの傷を癒されなかった世代はたぶんここから始まり、やがて「オタク」として「大人」たちを震撼させる。一時期頻発した「30代後半・無職」の犯罪には、ぼくにとって他人事ではない面が含まれていると感じた。この書物を挙げたのは、教室で君たちに向かって話しかける人間がどこからやってきたかを伝えておく責任を感じたからである。すなわち一種の自己紹介。今度は君たちが僕に教えてほしい。君たちがどういう人間であり、どこからやってきた怪物であるのかを。
  6. 『フラミンゴの微笑』(スティーブン・J・グールド 早川文庫 1985) もはや進化論(進化生物学)についての一定の理解なしに「社会」や「人間」について何かを言うことはできない。故グールドはアメリカの古生物学者で、素晴らしい科学エッセイの数々によって門外漢にも進化生物学の愉しみを存分に味わわせてくれた人。この本はやや古いが、夢のように面白い名著。ただし、その後の進化生物学の主流は、グールドが批判してやまなかった「社会生物学」となった。それもまた知的興奮をかきたてる営みである。長谷川眞理子『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊國屋書店 2005)、その人間への適用については、長谷川寿一・長谷川眞理子『進化と人間行動』(東京大学出版会 2000)が面白い。
  7. 『生命学に何ができるか』(森岡正博 勁草書房 2001) 進化論も含め、ここ数年、「生命」という言葉を活字で目にする機会が多くなっている。僕の専攻領域でいえば、不妊治療・代理母・出生前/着床前診断といった新しい生殖補助医療をめぐる問題が盛んに議論されるようになった。その焦点のひとつである障害者の選別的中絶の問題について、森岡は適切な距離をとってきちんと議論を進めている。僕はその思想にいくつかの異論をもっているが、真剣に読むに値する本であることは間違いない。特に学生諸君には、現実そのものについて、自分の頭で粘り強く考えていく著者の姿勢から学ぶものは多いだろう。ほかに、障害者差別の背景にある「優生学」の歴史については市野川容孝・橳島次郎・松原洋子・米本昌平『優生学と人間社会』(講談社現代新書 2000)、「生命」をめぐる思想と政治を強烈に批判する市野川容孝『身体/生命』(岩波書店 2000)も必読。
  8. 『性の歴史Ⅰ 知への意志』(M・フーコー 新潮社 1976) 進化論や生命への関心も含め、僕の「性現象論」に絶え間なく霊感を与え続けてくれる、性と生をめぐる透徹した分析の目録。僕はいまもなおフーコーの不肖の弟子(文字通り!)であるに過ぎない。「性」を神秘化するあらゆる言説と闘うために――すなわち少しだけ「自由」になるために読むべき書物。とはいえ、かなりの関連知識を要求する本だから、まずは講義録の『ミシェル・フーコー講義集成〈6〉社会は防衛しなければならない』(筑摩書房 2007)から入るのがよいかもしれない。
  9. 『第三の性』(森崎和江 河出文庫 1965年) おそらくここにはすべてがある。「性」などともはや括弧をつけないで書きたくなるような、性をめぐるすべてが。未だその可能性を汲み尽くされていない、日本のフェミニズム史上に屹立する名著。願わくば、あなたが、このような果実を生み出してきた日本のフェミニズムの歴史を大切に感じてくれればいいのだが。『フェミニズム・コレクション』(勁草書房 1993)、井上輝子・上野千鶴子・江原由美子ほか編『新編 日本のフェミニズム(全12巻)』(岩波書店 2009)で先人たちの苦闘の足跡を知ってほしい。
  10. 『イエスという男 第二版[増補改訂版]』(田川健三 作品社 2004) 「イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。......そして歴史の先駆者はその時代の、またそれに続く時代の歴史によって、まず抹殺されようとする」。抹殺され、牙を砕かれ、骨抜きにされてきた激越な〈逆説的反抗者〉、ナザレのイエスの言葉を、われわれはいかにして甦らせることができるのか。これがあなたに、そして僕に課せられた問いだ。ベンヤミンが言ったように(「歴史哲学テーゼ」『暴力批判論』晶文社/岩波文庫)、われわれが解放されない限り、死者たちもまた彷徨い続けるほかはなく、そして今も、「敵は勝ち続けている」のだから。

(4) 3~4年次で読んで欲しい本

  1. 『パリの憂愁』(C・ボードレール 福永武彦訳 岩波文庫 1869)
    『地獄の季節』(A・ランボー 小林秀雄訳 岩波文庫 1873)
    社会学は、「近代社会」の自己意識として誕生し、それゆえ「近代とは何か」という問いこそが、「社会学する」ことにとってのアルファでありオメガであると言われる。そうだとすれば、「近代人」であることの端緒と極限とを同時に示すこの二つの詩集から、すべては始められるべきだろう。
  2. 『資本論 第一巻』(K・マルクス 岩波文庫ほか 1873) 近代社会とはまた「資本制」の社会でもある。ただし資本制とは、個別の社会それぞれの特徴ではなく、民族や国境を自らの内部に組み込みつつ、それらを超えて拡張し続けるシステムのことだ。それは未だ謎に満ちているが、ただひとつ明らかなのは、それには外部がないということである。言い換えれば、舞台と舞台裏と観客席はあるが、劇場の外に出ることはできない。マルクスは、少なくともここが劇場の内部であることを、僕らに教えてくれた。それはまったく驚くべきことだ。だが今も僕らは、ここで死ぬまで、いや「死」をさえも、踊り狂うほかないように見える。
  3. 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(M・ウェーバー 岩波文庫 1905) 資本制は「死」への恐怖から生まれ、いったん成立してしまえば、僕らの「生」を否応なく呪縛する牢獄と化す。ごく簡単に言うとこういうことが書いてある、社会学における古典中の古典。歴史書としては多くの異論を喚んできたようだが、資本制と「死」との根底的な結びつきを剔抉するその視線の射程の長さにおいて、今も読者を魅了する、鬼気迫る一冊。そういえば、貨幣は少しだけ死に似ている。どちらも、あらゆるものと引き換えられ、またいかなるものとも引き換えられない。
  4. 『デカルト的省察』(E・フッサール 岩波文庫 1931) 私の経験。それは私に属するのでもないし、経験される対象に属するのでもない。経験に先立って、「私」や「対象」がでんと存在するわけではないのだから。「私の経験」を何ものかに還元し、その属領とすることを拒絶するために、むしろ日常的な意識―世界を「経験」そのものへと還元すること。しかも厳密極まりない方法をもって。現象学という名の下で企てられたのは、およそこういうことである。メルロ=ポンティ(『知覚の現象学』みすず書房 1949)が喝破したように、それは精神の絶えざる辛苦ともいうべき、困難な試みであった。けれどもそれに対する現在的な批判は、それが真の困難を回避する道化的な困難さであるとみなしているかのようだ。
  5. 『快感原則の彼岸』(S・フロイト ちくま学芸文庫『フロイト自我論集』 1920) フロイトについては、晩年の『精神分析入門』(新潮文庫ほか)から入るのがまっとうなやり方だろうが、ここでは僕がかつて最も仰天した著作(と言ってもフロイトの全著作を読んだわけではないが)を薦めたい。この作品で語り出されるのは、名前ばかり有名な「生の欲動」と「死の欲動」というあの概念である。ただしそれは、しばしば誤解されていることだが、攻撃性だとか母性本能だとかいったありふれたお喋りとは次元が違う話なのだ。ここで展開されるのは、われわれ人類を含むあらゆる生命現象をその土台において一個の矛盾たらしめるような、全く相反する二種類の欲動の物語であり、「社会」の内側にちんまり収まるような「何とか本能」論とは全く水準を異にする、文字通りの破壊的な形而上学である。この身もフタもない異様な法螺話が、しかし途方もない衝撃を20世紀人に与え、認識の転換を迫ったのだ。
  6. 『悲しき熱帯(1、2)』(C・レヴィ=ストロース 中央公論新社 1955) 「構造主義」は、数学と言語学に由来するものだが、レヴィ=ストロースによって社会科学(人類学)の手続きに導入され、めざましい成果をあげた。そこでは見かけ上は異質な諸社会を通約する変換規則としての「構造」が発見され、その驚くべき精密さによって、「未開」から「近代」へと一直線に伸びる〈歴史〉(=進歩)の物語は風化を始めたとされる。その(最初で最大かつ最後の?)達成は大著『親族の基本構造』(青弓社 1949ほか)だが、今後も読まれるべき価値のある名著といえばむしろこれだと思う。硬質の思索が香気高い文章で綴られていく自伝的紀行文。南米での調査行をめぐる叙述、なかでも滅びつつあるナンビクワラ族の人びとの慈しみあう姿の描写は苦くも感動的だ。
  7. 『哲学探究』(L・ヴィトゲンシュタイン 大修館書店 1936) ことばの「意味」は客観的な事物を反映しているのではないが、他方それは、私やあなたの内面やら感情やらを反映するのでももちろんない。簡単なことだ、だって私やあなた(もちろん誰であっても)が生まれる前からことばはあったではないか。しかしそうだとすれば、ことばの「意味」とはいったい何処にあるのだろう? ヴィトゲンシュタインはこの泥沼のような問いを回避して、問いそのものを変更する。彼が「意味」を拒否して「使用」を持ち出すのは、言葉の力をどこか別の場所ではなく、われわれの諸実践そのものの中に見ようとするからだ。こうしてことばは「事物」や「人間」の呪縛を解かれ、われわれの〈生〉と忠実に外延を等しくすることになる。そこでは言語の根源的な〈他者性〉もまた明るみに出されるだろう。これは別に矛盾ではない。われわれの〈生〉ほど、われわれ自身から遠い存在はないのだから。
  8. 『人間の条件』(ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫 1951年) 20世紀は大量虐殺の時代であった。こんな断定はきっと軽薄であるに違いないが、だがいかなる歴史観や人間観をとるにしても、まず一度はそう言い切らねばならないとも思う。そうでなければ、私たちが生きる世界への疑問を切実なものにすることはできないだろうから。自らもナチスに迫害された亡命ユダヤ人哲学者アーレントこそは、この問いをみずからのものとして正面から全身で受けとめた人である。だがそれ以上に驚くべきなのは、彼女が「なぜ」という問いのシンプルさに見合う明快な〈答え〉を、ごまかしなしに出していることだ。すなわち、大量虐殺を生み出した原動力は「生命尊重」という思想だった。人間はみな同じ価値の命をもっている――そのような思想こそが、数百万人、数千万人の無惨な死を招き寄せたのだ。この息詰まるような〈答え〉は、人々をいたずらに脅かす不謹慎な逆説に過ぎないのだろうか。少しでも気になったら、本書そして大著『全体主義の起源』(みすず書房)ほかの著作を繙き、アーレントの強靱な思索を辿り直してほしい。
  9. 『精神の生態学』(G・ベイトソン 思索社 1972) 考える。何かについて。だが、ちょっと待て。考えるとはどういうことか。「考える」ことと、「考えたつもりになる」こととは同じか否か。こうしたことについて、われわれの大半は何もわかってはいない。わからないままに、恭しく「問題」を立て、それにもっともらしい「答え」を出そうとする。だがそんな「答え」は、きっと古ぼけて曖昧なイメージでしかないだろう。ベイトソンはそんなアホらしい戯れから軽々と抜け出し、真に「思考する」とはどういうことかを演じて見せてくれる。彼はその技を、ニューギニアの一部族やイルカや自分の愛する娘とともに学んでいったのだった。これは難解だけれども、途方もない開放感を教えてくれる本だ。ベイトソンの、確かに大胆すぎる展開を「トンデモ」という紋切り型で片づけてしまう軽薄な人びとなど無視して、「世界と思考は同じかたちをしている」という「発見」から開ける視界を共に学ぼう。後年の『精神と自然』(思索社 1979)から入るのもよい。
  10. 『内省と遡行』(柄谷行人 講談社学術文庫 1985) 「チーマー」「サークルの席取り」「うちら」......そうした行動や言葉を浸す、ジクジクと閉ざされた「仲間」意識。その反面でいつも「探す」対象にとどまり続ける、「本当の私」という吐き気のする言い訳。戦前も戦後も何も変わらない、排除と棄民の暴力によって絶え間なく自らを閉ざしてゆく〈共同体〉から、どうすれば脱出できるのか――この問いを、最も原理的で抽象的な水準において貫き通すこと、「ニーチェの言う『巨大な多様性』としての《外部》、事実性としての《外部》」へ。柄谷が予告した〈遡行〉の道程は、たぶん未だ本当に終えられてはいない。あるいは、終えることなく挫折しつづけねばならないという宿命を、それは負っているのか。本書がたとえ今のあなたにとって難解に過ぎるとしても、若き柄谷の闘いが今度はあなた自身の若さによって引き継がれ、更新されることを願う。

(5) 先生の代表的な著書または論文を二つか三つ教えてください。

    「二つか三つ」といわず、もっとたくさん挙げさせてもらいます。
  1. ●「『風の谷のナウシカ』試論――〈追憶〉と死者たち」(『季刊 窓』第22号、窓社、1994年)
  2. ●「女性の自己決定権の擁護」(江原由美子編『生殖技術とジェンダー』勁草書房、1996年)
  3. ●『性現象論――差異とセクシュアリティの社会学』(勁草書房、1998年)
  4. ●「構築主義と身体の臨界」(上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房、2000年)
  5. ●「身体を所有しない奴隷――身体への自己決定権の擁護」(『思想』3月号、2001年)
  6. ●「フェミニズムを古びさせるのは誰か?」(『大航海』39号、2001年)
  7. ●「ジェンダーの20世紀」(『岩波講座 20世紀の定義8 マイナーの声』岩波書店、2002年)
  8. ●『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか――性道徳と優生思想の百年間』(ちくま新書、2004年)
  9. ●『図解雑学 ジェンダー』(石田仁・海老原暁子との共著、ナツメ社、2005年)
  10. ●若桑みどり・皆川満寿美・加藤秀一・赤石千衣子[編著]『「ジェンダー」の危機を超える!――徹底討論!バックラッシュ』 (青弓社ライブラリー、2006年)
  11. ●『ジェンダー入門』(朝日新聞社、2006年)
  12. ●「ジェンダーと進化生物学」(江原由美子・山崎敬一[編]『社会理論とジェンダー』有斐閣、2006年、第1章)
  13. ●「性的身体ノート――〈男語り〉の不可能性から〈新しい人〉の可能性へ」(荻野美穂[編]『資源としての身体――身体をめぐるレッスン2』岩波書店、2006年)
  14. ●「遺伝子決定論、あるいは〈運命愛〉の両義性について――言説としての遺伝子/DNA」(柘植あづみ・加藤秀一[編著]『遺伝子技術の社会学――テクノソサエティの現在Ⅰ』文化書房博文社、2007年、第1章)
  15. ●『〈個〉からはじめる生命論』(NHKブックス、2007年)
  16. ●「概念と方法 性/愛、セックス/ジェンダー」(飯田隆ほか[編]『岩波講座哲学 12 性/愛の哲学』岩波書店、2009年)