明治学院大学社会学部MENU

岩永 真治 教授(専攻 地域社会論)

人生は夢であり、神々が愛するひとは若くして死ぬ。
(メナンドロス)

(1) 社会学とはどのような学問とお考えですか。

 

基本的には、社会学というのは社会学者の数だけあると考えています。その学問上の独自性は、研究対象にあるというよりも、むしろ対象にたいする独自のアプローチにあるといったほうがよいでしょう。もちろん、独自のアプローチが他の学問にはない独自の研究対象を浮かびあがらせるのであれば、社会学の学問上の独自性は研究対象の独自性にあるということにもなります。事実、社会学確立期の巨人たち(ジンメル、デュルケーム、ヴェーバー、パレートなど)の足跡は、既存の学問的な枠組みからは十分にアプローチできないある研究対象を発見すると同時に、その研究対象へのアプローチの仕方を確立し、そしてそのアプローチを社会学と名づけるという試みの繰り返しでした。そして現在も、哲学、文学、心理学、歴史学、経済学、政治学、地理学、建築学、都市計画学、医学、精神分析、美学などに固有の対象と交わりながら、しかしそれらとは少しズレたところに対象を設定することが、あるいは社会それ自体との関係においてそれぞれの学問の対象を考察することが、実際に社会学の学問的な営みになっています。ちなみに、社会学という学問の基本的な関心は、「社会秩序はいかにして可能か」にあるといえるでしょう。

わたし自身は、ミクロな社会やマクロな社会を研究する基本的な視座として、「分業と所有ヘクシスの社会学」というのを考えています。したがって、現在のわたしにとっては「分業と所有の諸形態」が社会学の研究対象です。古典ギリシア語でヘクシス()という言葉は、人間とその内的、外的な対象とのあいだにできる所有関係を意味します。この古典ギリシア語のヘクシス(ラテン語ではハビトゥスhabitusになりますが、このギリシア語とラテン語のあいだにある意味の広がりのちがいが重要です)という言葉に始原的に示されている過程を、わたしは広げて解釈し、時代における個々人の行為の様式と社会的に生産されていく(=分割され再結合されていく)労働=生命活動(エネルゲイア)の様式とのあいだの関係性(すなわち、分業の歴史的、社会的な展開の形態)と、そういう関係性としての個々人による空間の実践的な領有の様式(すなわち、所有の歴史的、社会的な諸形態)として捉えようと試みているのです。この「ヘクシスの社会学」によって、歴史的、地域的な共同体コイノーニアの同一性と種差があきらかになり、また社会的相互行為の時代的な特質があきらかになるとわたしは考えています。もちろん、人間性と社会秩序の原理的な解明には、他の学問やアプローチの援けも借りなければならないでしょう。

「ヘクシスの社会学」の視座や分析領域に関心のあるひとは、拙著『グローバリゼーション、市民権、都市―へクシスの社会学―』(春風社、2013改訂版)を直接手にとってもらえればと思います。

この「分業と所有の社会学」を、プラトン、アリストテレス、A・スミス、コント、ジンメル、デュルケーム、ヴェーバー、パレート、マルクス、高田保馬らの仕事に導かれてわたしは構想しているのですが、この10年のあいだに、分業をシステムに、所有を行為または社会的行為に置き換えてもいいのではないかと考えるようになりました。分業の問題は、これまで基本的には「社会的な分割労働」(social division of labor/division du travail social)の問題であると考えてきましたが、アイゼンシュタットなどの著作を参考にしながら社会システム論的な思考にきりかえることも可能なのではないかといまは考えています。一方、所有の問題をわたしは、日本における社会思想史研究の蓄積を前提にこれまで「関係行為」(より厳密には、sich verhalten gegenüber)の問題として考えてきましたが、これも現在では、ブラウやホーマンズなどの仕事を参考にしながら社会的交換および経済的交換の問題、あるいはD・ウィラーが主張するような「ネットワーク交換」の問題として取り扱うことができるのではないかと考えています。したがって、わたしが構想してきた「分業と所有の社会学」は、現在では「社会システムと交換の社会学」とタイトルを変えることが可能であるように思われます。

 真理の言葉は単純である。 (古代ギリシアの文献)

へクシスの社会学は、人間の対象にたいする活動の傾向的特性とその構造化を問題にし分析する科学であり、たとえば「美的性向と趣味判断の社会学」として展開することも可能です。ゲーテは、『箴言と省察』のなかで、「美は秘められた自然法則のひとつの現われである」といっていますが、じつは「美に関する現象」は、対象にむきあうひとつの行為や活動として、差別化された「社会法則」をもっていると考えられます。この「社会法則」は、ヘクシスの社会学にとって、今後の重要な分析課題のひとつです。フランスでは、ピエール・ブルデューという社会学者(2002年1月23日にパリで亡くなりました)が、類似の、しかし鋳型のちがったハビトゥスというラテン語由来の概念(ハビトゥスという語は実際、古典ギリシア語ヘクシスのラテン語訳です)で、同じ文化的差別化の問題に取り組んだことがあります。これは、おもに1960~70年代のフランス社会を対象にした研究です。研究の結果や成果は、『ディスタンクシオン』という著書で知ることができます。日本語訳は新評論、藤原書店から上・下二巻ででています。

ここで、ヘクシスの社会学のさらなる展開に関して、少しヒントを与えておきましょう。ブルデューは、言語を「身体技法(technique du corps)」であるといい、言語的能力、とりわけ音韻論的言語能力は社会的な間柄と世界との関係がそこに表現される「身体的ヘクシス(hexis corporelle)」の一部であるといっています(稲賀繁美訳『話すということ』(藤原書店、1993、102~7、151)。喋り方や食べ方や飲み方や笑い方にともなう口のさまざまな包括的用法(そこには「上品である」「下品である」「子供っぽい」「田舎っぽい」「女性らしい」といった、文化的な諸要素をまとめあげる「評価」や「説明」がついてまわります)について、かれはとくにフィジカルな側面に着目して、このヘクシスという言葉を使用しています。

けれども、残念なことに、日本のブルデュー紹介者はだれも、かれのこの言葉の使用法に着目していません。本来であれば古典ギリシア語のヘクシスとラテン語のハビトゥスという言葉がひとつの社会学的なまなざしのなかに関連づけられていることじたい、ある意味不思議なことであり、また探究に値する独特な出来事すなわち特異な社会界における社会現象であるはずです。

最後に、社会学は現実の人間や社会を対象にする学問であり、経験科学です。しかし、社会学は、自分に固有の観点(アプローチ)や研究対象をもたずに、むやみやたらと探究の対象を広げていく学問ではありません。この点、強調しておきたいと思います。

   
青銅は姿の鏡であり、ぶどう酒は心の鏡である。
(アイスキュロス)

(2) 先生が専攻されている、あるいは、この大学で学生に教えられている社会学とはどのような学問ですか。

 

わたしの専攻は「地域社会論」です。対象となる地域社会には都市と農村の両方がふくまれます。旧いカリキュラムでは「都市社会学(urban sociology)」と「農村社会学(rural sociology)」の別々であったものを、ひとつの科目に統合してできた新しい学問領域です。現代の地域社会は都市と農村に単純に区分することができない状況にあること、都市と農村の関連それ自体が新たな問題として浮かびあがってきていること、また地方自治体の諸施策が地域社会にどのようなインパクトを与えているのかに関する研究が重要になってきていることなどからその必要性が認識されてきたのが、この「地域社会論」という学問領域です。「地域社会学」と呼ぶこともできます。英語では通常 regional and community studies と表現されますが、わたし自身は地域社会の歴史的な変化を都市現象の拡大と捉えていますので、urban and community studies と自分の専攻を表現するようにしています。コミュニティの語は地域社会と訳されたり共同体と訳されたりしますが、後者の意味でコミュニティの形成を考えるばあいには、欧州連合などの「グローバルな地域的共同体の形成」や「ネットワーク・コミュニティの形成」なども視野にはいってきます。

 

ところで、メリメの小説『カルメン』のなかに、ユーラシア大陸の西側ジブラルタルに至るまでの地域社会について、つぎのような文章があります。

「ボヘミアン、ヒタノス、ジプシー、チゴイネル、その他さまざまな名で知られ、全ヨーロッパに散らばっているあの流浪の民が、今日なおもっとも多くいる国のひとつがスペインだ。かれらの大部分は、南部および東部の諸地方、すなわちアンダルシア、ムルシア王国のエストラマドラに住んでいるというよりは、そこで流浪の生活を送っている。カタロニアにもやはり大勢いる。この連中はときどき、フランス国内へもはいりこんでくる。フランスの南部地方に市が立つと、かれらの姿が必ず見られる。普通、男たちは博労や、獣医や、騾馬の毛刈りを職業にしている。鋳掛屋もかれらの職業の一つだ。密輸や不正行為もむろんやっている。女たちは占いをしたり、物乞いをしたり有害無害さまざまな薬品を販売したりしてもいる。」

ここにでてくるエストラマドラは、いまでも、スペインでもっとも貧しい地域のひとつです。なぜそうなのでしょうか。メリメの『カルメン』から、時間はずいぶんたっています。そのことについて考えることも、地域社会論という講義の主要な課題になっています。理論的にいえば(学問をこころざすひとは、この言葉に注意してください。対になっている言葉=思考は、現実の問題としては、です)問題になっているのは、「都市と農村のあいだの不均等発展」といわれる社会的現実です。同型の問題は、たとえば首都圏と東北地方のあいだにも、大阪神戸京都圏と瀬戸内や山陰地方のあいだにも、名古屋大都市圏と岐阜、紀伊半島、信州、駿河地域とのあいだにも、見られます。さらには、沖縄本島と宮古諸島、八重山諸島とのあいだにも、見られる関係です。

一方、フリードリッヒ・ニーチェは、「大都会」について、「あつかましい奴ら、恥知らずな連中、物書き屋、絶叫屋、逆上した野心家どものむらがるこの大都会」(『ツァラトストラはかく語りき』)と書いています。「・・あらゆる腐りかけたもの、いかがわしいもの、みだらなもの、暗いもの、熟れてただれたもの、おでき、はれもの、陰謀のたぐい、なにもかも一緒になって膿みを出しているこの大都会、・・この大都会につばをはきかけて、引きかえせ!」(『同』)と。また、ジャン=ジャック・ルソーは、「壁や街路や犯罪しか眼にしない都会の住民たちが、どうして信仰をもちえないのか、わたしにはよくわかる」(『告白』)と書いています。「都市とはなにか」あるいは「<都市的なるもの>とはなにか」についての考察も、地域社会論の主テーマになっています。

「都市的なるもの」の現代的意味に関しては、(5)の拙論①を参照してください。人間個人の自然との向き合いが、工業化および情報化・グローバル化された都市環境においてどのような結果=作品を産み出すのかについて、考察しています。

いちばん裕福そうに見えるぶどう栽培者がいちばん困っているのである。それはかれらが都会の商人に急所を抑えられているからである。都会の商人は凶作の年にはかれらに生活費を前貸ししてやり、豊作になると二束三文でぶどう酒を捲きあげるのだ。でも、こんなことはどこへ行っても同じことである。 (ゲーテ『イタリア紀行』)

学んだことは書きとめよ。
(ダンテ)

(3) 1~2年次で読んで欲しい本

  1. 『イリアス』(ホメロス 岩波文庫 上・下巻 1992) 「パトロクロスの葬送競技」を謡った第二三巻は、われわれの社会にたいする示唆に富んでいる。そこにアゴーン(アゴーン)の社会的な意義*をみいだすのも、ゲーテとシラーの対照あるいは古典的クラシックなものとロマンティックなものの対照をみいだすのも、われわれの自由である。最初は、散文訳の松平訳からはいるのがよいだろう。

    *グローバルな次元での"アゴーンの政治"の重要さが指摘されている。それは異質なアイデンティティをもつ「他者」がいなければ「自己」のアイデンティティも成立しないという考え方の表明である。「対話」も、相互に異質なものだからこそ成り立つという考え方の表明でもある。この意味で「対話」は「闘技=競技アゴーン」である。(山田竜作「グローバル・シティズンシップの可能性」藤原孝・山田竜作編『シティズンシップ論の射程』日本経済評論社、2010、280〜81)

     「選択」に基づいて害したのであるならば、彼女は不正をはたらいているにとどまらず、彼女はまた不正な人間である。 (アリストテレス『ニコマコス倫理学』)
  2. 『オデュッセイア』(ホメロス 岩波文庫 上・下巻 1994) 人間の営みエルゴンは布を織っては解き織っては解く「ペネロペイアの仕事」のようなもの。この本は、『イリアス』における「木馬の奸計」の話同様、グローバルなコミュニケーションの触媒となる貴重な知的資源をわれわれに提供してくれる。これも、最初は物語の筋をつかみやすい松平訳を薦める。

     海賊の持ち物のなかで、ダイヤモンドと黄金についでもっとも貴重なものは、わたしたち女でした。
    (ヴォルテール『カンディード』)
  3. 『アエネーイス』(ウェルギリウス 岩波文庫 上・下巻 1976) ラテン文学の代表作。ウェルギリウスはホメロスに負けじとこの大英雄叙事詩を書いた。イタリアに渡りローマを建国するこの詩の主人公アイネイアースが、ホメロスの『イリアス』第13巻では、つぎのように呼びかけられていたことを思い出すのも楽しい。

     アイネイアースよ、青銅の鎧をきたトロイア人らの謀り事の担い手よ。
    (484~5行、ホメロス輪読会訳)
  4. 『変身物語』(オウィディウス 岩波文庫 上・下巻 1981~4) 題名からフランツ・カフカの小説『変身』を想い浮べる者もいるだろう。カフカの『変身』はサラリーマン社会の暗部にある問題を指摘していて、それはそれで重要な小説であるが、とにかく重々しく暗く、人間の意識プシューケーを特定の表象に集中させる。一方、オウィディウスのこの『変身物語』は、ポジティヴな解放感に満ちており、多様な自己実現の完成エンテレケイアをわれわれに楽しませてくれる。

     欲しいものが手にはいらぬうちは、そのものが最上にみえる。だが、一度これを獲得すれば、また別のものが欲しくなる。こうして欲望は変わることがない。
    (モンテーニュ『エセー』)
  5. 『国家』(プラトン 岩波文庫 1979) この著作にでてくる「洞窟の比喩」は、とにかく示唆に富む。社会学ではウォルター・リップマンが名著『世論』の冒頭に引用しているのを指摘することができるが、古来、この「洞窟の比喩」にインスピレーションを得て古典といわれるようになった思索を展開した者のなんと多いことか。哲学はわたしの専門ではないが、西洋の哲学はすべてプラトンの著作の脚注にすぎないといわれるのも、分かるような気がする。
    「哲人統治」の思想のなかに、「法の支配」ではなく「個人の人格による支配」を選択してきた旧共産党一党支配体制の問題点をみいだすのも、ひとつの読み方である。

    人生の真の偉大さは自分自身を治めることである。
    (ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』)

     ちなみに、「まことおさめる」というのが、親がわたしにあたえてくれた名前の謂いである。さて、なにによって、どのように治めることができるのだろうか。ここでは、「中のへクシスによって」と、簡単に答えておきたい。
  6. 『ニコマコス倫理学』(アリストテレス 岩波文庫 上・下巻 1971~3) アリストテレスの本ときくとすぐに難解な哲学的著作であると想像しがちであるが、この本はとても読み易い本である。訳としては岩波全集の加藤信朗訳の方が原文に忠実で注解も丁寧であるようだが、わたしとしてはこの高田三郎訳を薦めたい。人間には善く生きるか悪く生きるかのどちらかの道しかないということ、人間の善さ悪さはその人の選択に現れるということなどをこの本は教えてくれる。振り返ってみよう。われわれが日常口にしていることのほとんどは、物事が善いか悪いかということではなかったか。さらに、(徳はそれ自体、美しい)、そして、地域社会の高齢化を目の前にして、(老人たちにとっても賢さを学ぶことは美しい)と、つけくわえておきたい。

    倫理的な卓越性ないしは徳のばあいには、・・まずそうした活動をおこなうことによってわれわれはその徳を獲得するにいたるのであって、それは、もろもろの技術テクネーのばあいに似ている。・・・たとえば、ひとは建築することによって大工となり、琴を弾ずることによって琴弾きとなる。それと同じように、われわれはもろもろの正しい行為をなすことによって正しい人となり、もろもろの節制的な行為をなすことによって節制的なひととなり、もろもろの勇敢な行為をなすことによって勇敢な人となるのである。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)
  7. 『政治学』(アリストテレス 岩波文庫 1961) 原題名はで、ギリシア語を字義通りにとれば「ポリスに関することども」という意味になる。「政治学」とか「国家学」と訳すのは、厳密にいえば、まちがいである。「政治学」や「国家学」を意味するギリシア語はとして別にあるからである。この本をわたしは社会学の古典であると思っている。とりわけ、都市の社会学的研究には欠かせない本である、と。見田宗介他編『社会学文献事典』(弘文堂 1998)には、この『政治学』も『ニコマコス倫理学』も社会学的研究の古典としてとりあげられている。

    立派に支配しようとする者は、・・まずもって支配されねばならない・・。そして支配には・・二つあって、そのひとつは支配する者のためのものであり、他は支配される者のためのものである。そして、われわれは前者を主人の[奴隷にたいする]支配といい、後者を自由人の支配といっている。 (アリストテレス『政治学』)
  8. 『弁論術』(アリストテレス 岩波文庫 1992) 太平洋戦争の敗戦によって日本はデモクラシーの諸制度を整えることになったはずなのに、デモクラシーの基礎になる議論の仕方について書かれた古典中の古典であるこの本の内容は、江湖に訴えられることがなかった。机をたたき椅子をガタガタ鳴らし大声で反対を繰り返しても、議論にはならない。議論なくしてデモクラシーは機能しない。冷戦が終焉しバブルが崩壊して後、この本は重々しい全集の一冊から手軽で親しみやすい文庫本になった。喜びたい。しかし、われわれはこの本から人心収攬の術を学ぶこともできるし、この本によってソフィストになることもできる。心して、またよく考えながら読みたい本だ。
    (すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。『形而上学』980, a22)
    そして、
    (驚嘆することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初のばあいにもあのように、知をもとめはじめたのである。同982, b12―13)日本語訳のタイトル「形而上学」の、ペジョラティフな言葉の響きによって意味されるものとは反対に、この本は、人間をめぐる事象に関して多くの真実を穿っている。
    (形而上学・・・じつは、この日本語に問題がある)(岩波文庫 上・下巻 1959、1961)も、古代ギリシア人が「自然ピュシス」にむきあった姿を想像しながら、素直な気持ちで読んでもらいたい本である。
  9. 『ギリシア・ローマの盛衰』(村川堅太郎、長谷川博隆、高橋秀 講談社学術文庫 1993) この本の最後のところで村川堅太郎は、1964年に東京でおこなわれたオリンピックは、古代ギリシア市民の習俗を極東の日本にまでもたらした点で世界史的な意味のあるできごとだった、と書いている。今日の日本人の生活は、一回のオリンピックなどとは比較にならぬ深い関係で、古典古代市民の文化とむすびついている、と。だが、ひとはこのつながりを意識しない。
     第1回の東京オリンピックでは古代ギリシア市民の習俗の日本への到達と暗黙のうちにそれを背景とした日本社会の「近代化」が問題になったとすると、2020年の第2回東京オリンピックでは、なにが問題となるであろうか。
    (4)の⑨⑩で紹介する論点に関連づければ、おそらく日本人にとっての西洋古典古代に対する向き合いの不十分さを越えて、ユーラシア大陸前史としての、中央アジアの古典古代(アムダリヤ河上流のアイハヌムやタフティ―サンギンの遺跡にみられる古代ギリシアや古代ローマの影響)や古代ギリシア以前のヒンドゥー教や仏教的な伝統の再認識やそれらとの対話、市民社会や公共圏をユーラシア大陸レベルで創成するためのグローバルな対話が問題になり、また求められてくるであろう。
     これは世界史の第三ラウンドの始まりとなるであろう。

     村川は1991年11月8日の夜、ある研究会で2時間あまり「古典古代の市民の友愛」について報告をし、翌日から病に伏したそうである。肉体も精神も若く溌剌としたわれらがその善き意志を引き継ごうではないか。しかし同時に、近代社会を反省的に創成する新しい世界のグローバルな文脈のなかで、そうする必要があるのである。

    われわれがみずからを古代に対置し、それによって自分を形成しようと真剣に古代を静観すると、自分がはじめて本当に人間になるような気がする。  (ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』)
  10. 『ブッデンブローク家の人びと』(トーマス・マン 岩波文庫 上・中・下巻 1969) この長編小説はドイツの一ブルジョア家族の没落の歴史を描いたものである。社会学的に興味深いのは、18世紀の啓蒙思想に鍛えられた実業家を初代とする一家族が、代を追うにつれて次第に精神的、芸術的なものに支配されていき、生活力を失っていく過程である。

    つい50年前までは素朴で剛健で貧しかった地方武士の家が、わずかの間に大をなし、清顕きよあきの生い立ちと共にはじめてその家系に優雅の一片が忍び込もうとすると、たちまち迅速な没落のきざしを示しはじめるだろうことを、かれはありが洪水を予知するように感じていた。 (三島由紀夫『豊饒の海』第一巻「春の海」)

    マンの『ブッデンブローク家の人びと』は、実学志向の塾が作家や芸術家を輩出しながら徐々に退廃的でアンニュイな雰囲気が支配する近代的な大学校に変化していく過程と重ねあわせながら読むと、さらに面白い。家族や学校を単位に、A・マズローがいう基本的欲求間の優先序列の問題を考えてみることもできるだろう。

    創作(詩作)の技術における「正しさ」は、国家社会のための技術(政治術)における「正しさ」と同じではなく、さらに他のいかなる技術・学問における「正しさ」ともけっして同じではない。 (アリストテレス『詩学』)
教養は黄金の冠に似ている。それは多くの「名誉」と「出費」をともなうから。
(古代ギリシアの文献)

(4) 3~4年次で読んで欲しい本

  1. 『人間の条件』(ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫 1994) 古典世界の知を現代社会の自己分析にいかした典型的な書である。もとは1956年にアメリカのシカゴ大学でおこなわれた「活動的生活ウィタ・アクティーウァ」という表題の一連の講義である。ドイツ語やイタリア語の本のタイトルはこのラテン語の講義の題名をそのまま使用している。この本がわたしにとって刺激的であったのは、労働/仕事/活動の区別の問題であり、また公的領域と私的領域の関係の歴史的な変化の問題であり、「現われの空間」や「唯一性としての存在の多数性」をめぐる思索であった。この著作の内容は、いまも、わたしの思考の基礎にある。

    正しく治められようとする国においては、生活に必要なものに煩わされない閑暇が存しなくてはならないということは、すべての人が承知しているところである。 (アリストテレス『政治学』)
  2. 『アメリカの小さな町』(トニー・パーカー 晶文社 1993) アメリカの都市というとニューヨーク、ロサンジェルス、シカゴなどの大都市を思い浮かべがちだが、この本で紹介されているのはカンザス州の人口2000人規模の小さな町の生活である。郡保安官からウェートレス、美容師、酒屋、郵便局長、看護婦、学生、教師、葬儀屋、牧師、画家、石油長者ご隠居さん、町のならず者まで、100人が語る、わたしの町、わたしの人生。映画やテレビのニュースではあまり知ることのできないもうひとつのアメリカの素顔、つまりアメリカの小都市にあるゆったりとした時間の流れをこの本を通して知ることができる。1999~2000年にわたしがはじめてアメリカに長期滞在した折に、ミシガン州ホラント市(文字通り、オランダ系の移民の町)で体験した小世界が、ここにはある。

    われわれ田舎に住んでいる者は、できるだけ働きいいように、自分の手を処理しているので、そのために爪も切るし、ときには袖もたくしあげる。ところが、ここではみんながわざと、のばせるだけ爪をのばして、小皿みたいな飾りボタンをつけて、手ではなにひとつできないようにしている・・・。 (トルストイ『アンナ・カレーニナ』)
  3. 『ユダヤ人問題の原型・ゲットー』(ルイス・ワース 明石書店 1993) ユダヤ民族のディアスポラ(離散)の歴史は、かなりの部分、欧米の都市におけるユダヤ人の居住区すなわちゲットーの歴史である。ワースのこの本は、シカゴのユダヤ人社会を研究するにあたって、ゲットーの起源、ゲットーの制度化、典型的ゲットーとしてのフランクフルトの事例、ユダヤ人の精神などにも視野を広げている。しかし、この本の序文でR・E・パークが述べているように、20世紀初頭のアメリカの大都市においてゲットーはもはやユダヤ民族に限定的に使用される用語ではなくなった。それはいかなる人種集団、文化集団にも適用されうる用語となったのである。ハーヴァード大学の社会学者W・J・ウィルソンは今日、"ghetto underclass"という概念を新しく提起している。
    他方、1970年代以降、アメリカではいわゆるポスト・フォーディズム期の社会経済構造の変化にともなってゲットー内の経済活動が加速度的に衰退することで、ゲットーの中産階級やエリート層が転出し、最貧困層だけが残されて、ゲットーの「統合」機能が失われたといわれている。こうして、「排除の空間」でしかなくなったゲットーの現状を、社会学者ロイック・ヴァカンは「ハイパーゲットー」と呼んでいる。なお、徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、1997)も薦めておきたい本である。

    おお、ツァラトゥストラ、ここは大都会だ。ここにはあなたの求めるものはひとつもない。失うものばかりだ。
    (ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』)

    ツァラトゥストラはどのように語ったか。古代ギリシア人はかれのことを「ゾロアスター」と称した。かれは古代インド―イラン人の宗教の改革者として登場している。人間性において、<アポロ的なるもの>の近代的頽廃に対して<ディオニュソス的なるもの>の復活を主張することで、現代の都市文明にあてられる光とはなにか。
  4. 『都市社会学』(C・G・ピックヴァンス編 恒星社厚生閣 1982) ピックヴァンス編のこの本をとりあげておきたい。この論文集は、『都市社会学』という題名とは反対に、都市社会学批判を企図したものである。なかでもマニュエル・カステルによる二本の論文「都市社会学は存在するか」と「都市社会学における理論とイデオロギー」は、都市社会学という学問の無理論性、非科学性を暴露する衝撃的な内容であった。それはパリの五月革命の只中から生みだされた理論的な営為でもあった。また、フランス語の英語への翻訳によるこの論文集出版のインパクトを同時代的に日本で表現したものに、吉原直樹『都市社会学の基本問題』(青木書店、1983)がある。1960年代後半から80年代初頭にかけての著作で、出版されてちょっと時間がたったが、社会学において都市および都市社会を理論的に探求しようとする者にとっては、依然として重要な、現代の古典である。
    都市および都市社会の未来に関しては、拙稿「ユーラシア大陸統合の社会学―都市への権利と都市的なるものの未来構想―」(末尾の拙著紹介①)を参照してほしい。

    かれは、パリにいても旅行に出ても、手帖を手離さず、観察したことをたえず書きとめた。そして、これを材料として、創作した。
    (ドーデ『サフォー―パリ風俗―』)
  5. 『イスラム都市研究』(羽田正、三浦徹 東京大学出版会 1991) 都市の研究には現在、大きく分けて二つの潮流がある。ひとつは、西欧市民社会型の都市を批判的にであれ肯定的にであれ前提にしているものである。前述の都市社会学と都市社会学批判はともに、この潮流に属する。もうひとつは、いま述べた潮流に大きく反旗をひるがえすものであり、イスラームの都市を研究する流派である。この流派は、イスラームの都市には西欧の市民身分にみられるような特権的な意識は存在したことがなく、イスラームの都市はすべての者が自由に商いができる空間であると主張している。イスラームの都市には、西欧的な「市民的平等シティズンシップ」の観念はないが、ムスリム同士の平等な扱いの原則が存在する。『イスラム都市研究』はこの流派の研究の成果を集約したものである。また、世界中のイスラーム都市の多種多様な情報が、板垣雄三・後藤明編『事典・イスラームの都市性』(亜紀書房 1992)には収められている。わたし自身は、西欧的な「市民的平等」とムスリム同士の平等性は、古代ギリシア起源の同根思想ではないかと考えている。さらにさかのぼれば、サンスクリットで書かれた諸文献のなかに、その原思想を発見できるかもしれない。
    ところで、中国の西部や南西部には、アラビア語でコーランを読むイスラーム教徒が存在する。かれらはアラブではない。東チモール問題やスリランカのタミル紛争など、イスラームは、われわれアジアの問題でもある。
    われわれにとってのこのアジアの問題を、ユーラシア大陸レベルの市民社会と公共圏の創造的構築の問題に関連づけていえば、第一に、グローカリゼーション(glocalization)が「地域性(localities とregionalities)」を創発する局面で口述性(orature)と文学(literature)の弁証法的関係性が問題となるだろう。あるいは"声"と"文字"のあいだの対立関係の問題といってもよい。第二に、イスラーム社会が多様に築いてきた政治的権力をコントロールするための市民社会システム(個人の生活と財産を守るための法の支配、宗教的および民族的多元主義、意思決定に関する諮問と合意の下での、ムスリム共同体の国家からの独立など)が、再発見と再探究の対象となるであろう。

    自分の問題はすべての人間の問題であり、すべての生活と思索の問題だという悟りが、神聖な影のように突然わたしの上をかすめ過ぎた。
    (ヘルマン・ヘッセ『デミアン』)
  6. 『リーディングス・日本の社会学・7・都市』(鈴木広・高橋勇悦・篠原隆弘編 東京大学出版会 1985)『リーディングス・日本の社会学・6・農村』(中田実・高橋明善・坂井達朗・岩崎信彦編 東京大学出版会 1986) 都市研究、農村研究において、日本の社会学者が書いたものでオリジナリティがあると判断された論文が、それぞれの巻に収められている。ただし、都市研究の巻には、日本の近隣関係について論じたR・P・ドーアの論文が一本挿入されている。農業や農村問題に関する新しいリーディングスとしては、蓮見音彦編『講座社会学3・村落と地域』(東京大学出版会、2007)がある。

    われわれは、単純社会から複雑社会への移行は、分業の増進と技術的機能の特殊化に存したということを知っている。田舎社会から都市社会への移行は、まさにこの比較的単純社会から複雑社会への移行である。
    (ソローキン・ツインマーマン『都市と農村』)
  7. 『町内会と地域集団』(倉沢進・秋元律郎編 ミネルヴァ書房 1990) 地域社会研究のなかで理論的および実証的研究の両方に比較的蓄積のあるものとして、町内会研究がある。この本は、1980年代までさまざまな方向性をもって展開され水準が高められてきた町内会研究を、一冊の本に集約したものである。都市社会学・地域社会学における町内会研究の成果としては、玉野和志『東京のローカル・コミュニティ』(東京大学出版会、2005)があり、第5回日本都市社会学会賞を受賞している。また、田中重好『共同性の地域社会学』(ハーベスト社、2007)も、第1回地域社会学会賞を受賞した、関連する研究成果である。どちらも地域社会に程度の差はあれインテンシヴに入り込むタイプの研究である。
    なお、社会学における都市・地域社会研究の全領域を知りたい人には、『都市社会学コレクションⅠⅡⅢ』(日本評論社、2011~12)『地域社会学講座・全3巻』(東信堂、2006)が、詳細な情報を提供してくれる。都市社会研究の全領域を俯瞰するためには、ハンドブックとして中筋直哉・五十嵐泰正編『よくわかる都市社会学』(ミネルヴァ書房、2013)が役に立つ。

    わたしは、恩人と恩をうける者とのあいだには、一種の契約のようなものが、それもあらゆる契約のなかでもっとも神聖なものがあると思っている。
    (ジャン=ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』)
  8. 『住民投票運動とローカルレジーム』(中澤秀雄 ハーベスト社 2005)、『ボランティア活動の論理』(西山志保 東信堂 2005) 都市社会学・地域社会学の領域におけるこの2冊をあげておく。どちらも、相対的に若い研究者によるいわゆる学術書単著であり、ともに最近第1回日本都市社会学会若手奨励賞(2006)を受賞した作品である。社会学における都市・地域社会研究は、理論研究と実証研究の橋渡しをどのようにおこなうことができるのか、またその難しさはなんなのかを、この2冊は新しいテーマで教えてくれる。前者は、第33回藤田賞(東京市政調査会、2006)、第5回日本社会学会奨励賞(2006)も受賞している。後者も、日本NPO学会奨励賞(2006)を受賞するなど、ともに複数の学界賞を受賞している作品である。また、二階堂裕子『民族関係と地域福祉の都市社会学』(世界思想社、2007)は、第1回地域社会学会奨励賞を受賞している。
    ただし、学会賞というのは、学会の議論の「水準」と選考委員の「好み」の相関で毎年決定されるものであることは、理解しておいた方がよいだろう。出身大学とそれにつながる派閥(=学閥)関係の「相関技術テクネー/アルスの表現と言ってもよいかもしれない。

    人間の技術テクネーは、必然よりもはるかに弱い。
     (アイスキュロス)
  9. 『グローバリゼーション』(R・ロバートソン 東京大学出版会 1997) 1980年代以降の都市や地域の変容は、グローバリゼーションの問題抜きには語れない。とりわけ経済のグローバリゼーションは、ロンドン、ニューヨーク、東京の世界都市化をもたらすなど各国の都市や地域に大きな影響を与えてきている。しかし、この本が問題にしているのは経済のグローバリゼーションのつぎの問題、すなわち文化のグローバリゼーションである。普遍主義と個別主義の問題、文明化の過程の問題、さらに日本におけるグローバリゼーションの問題と日本の宗教の問題が直接に論じられている。
    この議論は現在、ユーラシア大陸レベルでは、ヨーロッパ統合の東方展開の問題、東アジア共同体の西方展開の問題と、その両統合にはさまれたトルコ(イスラーム世俗主義)、インド(ヒンドゥー教的多元主義)、ロシア(ロシア正教)の文化接触のゴールデン・トライアングルの問題となっている。グローバル化は同時にグローカリゼーションでもあり、そのユーラシア大陸レベルでの実現形態が問題になっているのである。
    他方、グローバル化による文化変容を扱ったものとしては、ミシェル・ヴィヴィオルカ『レイシズムの変貌』(明石書店、2007)も、好著である。2001~2002年、パリでの在外研究時に国立社会科学高等研究院でミシェルのゼミやかれの研究室で長時間にわたってフランス語でおこなった議論は、わたしの今日の社会学的な文化研究の基礎になっている。現在、基礎研究から少しずつ離陸しつつある、フランス・スペイン国境のバスク地域社会に関する研究プロジェクトも、ミシェルのゼミへの参加が端緒になっている。想い起こせば、在外研究のためにイタリアのローマからパリに夜行列車で着いて一週間のうちにおこったのが、ニューヨークでのあの9・11であった。わたしは、なにが起こったのか理解できずに、地下鉄駅ポルト・ド・クリッシーの上に建つパリのアパート4階の一室で、繰り返し流されるテレビ映像をただみつめていた。映像は、ほぼリアルタイムであったと思う。

    ロシア人の「4時間」は、われわれの「1時間」とだいたい同じではありませんか。あの連中の無頓着な時間感覚、これはかれらの国の未開の広大さと関係があるとも考えられます。空間が多いところには時間も多い、というわけでしょうか。
    (トーマス・マン『魔の山』)
  10. 『回想の福武直』(追悼文集刊行会 東京大学出版会 1990) 丸山眞男の政治学、大塚久雄の経済史学、福武直の社会学は、かつて三つ揃いでよく話題になった。わたしが大学にはいって最初に手にした社会学の本は、福武直・濱島朗編『社会学』有斐閣、第2版であった。地域社会学・村落研究における構造分析というのは、日本農村の社会的性格をつかもうとするなかで福武直が命名した方法である。地域社会学の源流は福武直の社会学なのである。この『回想の福武直』という本は、生前の福武の人柄とかれが育てた人間の幅の広さを知ることができる本であると同時に、社会学における地域研究の生成をめぐる関心を知ることができる貴重な本である。
    現在、地域社会学は、すでに(4)⑨の第二段落で述べたようなユーラシア大陸レベルのグローカリゼーションにどうむきあうか、その方法的基準の再考が求められている。たとえば、1990年代末からグローバリゼーションにひきずられるかたちで進行したインドの近代化やそれにともなうインドの村落共同体の変動が、世界都市グローバル・シティ東京の東部、江戸川区の西葛西や江東区の大島6丁目で形成されつつあるインド人コミュニティの特質とどう関係しているのかを、新しいグローバルな地域構造の生成の観点から問題にできなければならないであろう。またこのとき、同時に、1960年代初頭に福武が調査したインドの「村落共同体」と2010年代に東京で見られるインド人コミュニティの共通性と差異が、近代化とそのモデルへの世界史的反省(ポスト近代=postmodernityか、後期近代=late modernityか、横断的近代=transmodernityか、第二の、反省的近代=reflexive modernityか、あるいは多元的近代=multiple modernitiesかといった)の流れのなかで、把握されなければならないであろう。
    ちなみに、福武は、富永健一の全体社会モデル同様、1950年代に広まった普遍的近代(universalistic modernity)の一元的モデルを前提に、「農村社会の民主化と近代化」を課題にしていた。同時にそれは、国民的近代化(nationalistic modernity)のモデルでもあった。そのことがいま、鋭く問われている。
    ヒンドゥスタニ語文明、イスラーム文明(中東、東南アジア、アフリカ)、ロシア-ビザンチン文明、南アフリカのバントゥー語文明、ラテンアメリカ文明、中国文明や東アジアの他の文明(日本、朝鮮、ベトナムなど)。世界各地の古代からの文明・文化の復興運動が、あるものは伝統文化の柔軟性レジリアンスの旗を掲げて、西洋近代に向き合って沸騰している。そのことを、ナショナルなものが相対化されつつある国民国家のなかで、グローバルな地域統合を念頭に、どのように受け止めるのかが問われている。
三つのもの、すなわち「中庸のもの」と「可能なもの」と「適したもの」を、教育のための目標にしなければならない。
(アリストテレス『政治学』)
災難についてだれも非難するな。運は共通であり、未来のことはわからないのだから。
(イソクラテス)

(5) 先生の代表的な著書または論文を二つか三つ教えてください。

  1. 岩永真治(2014a)「ユーラシア大陸統合の社会学―都市への権利と都市的なるものの未来構想―」明治学院大学社会学部付属研究所『年報』第44号
  2. 岩永真治(2014b)「グローバリゼーション、市民権、都市―新しいグローバルな地域構造の生成―」明治学院大学社会学部社会学科編『コース演習テキスト』明治学院大学
  3. 岩永真治(2013)『グローバリゼーション、市民権、都市―へクシスの社会学―』春風社(改訂版)
  4. *①は③の終章「へクシス分析の社会学とその展望」をより具体的に展開したものであり、②は同じく③の第13章の同タイトルの拙論を、近年急速に進んだグローバルな地域(市場)統合の現実をふまえて注も補足し改訂新版としたものである。③は、2008年初版の拙著に、誤植の訂正、若干の新情報の付加、学会の近年の動向に合わせた鍵概念の調整(社会的排除ソーシャル・イクスクルージョン社会的包摂ソーシャル・インクルージョンなど)をほどこしたものである。

    フィーリアはむしろ愛するということに存するのであれば、そして「友を愛するひとびと」は賞讃されるのであれば、親愛なひとびとの卓越性なるものは、愛するということにあるように思われる。したがって、お互いの間においてこの愛するということが価値に応じておこなわれているひとびとは、持続性のある友であり、かれらの愛は持続性を帯びている。均等ではないひとびとがやはり友たりうるのは、なによりもこのような仕方においてである。これによって、かれらは均等化されるわけだからである。
    (アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

    げに深く愛した者はまた深く憎む。 (同『政治学』)

    おまえの好意は、裏のある、貪欲な、高利貸しの好意ではあるまいな。ひとつの贈り物をして二十のお返しを期待する金持ちと同じではあるまいな?  (シェイクスピア『アテネのタイモン』)

    *人間の相互行為についてリアリティのある考察をするばあいには、この三つの引用に表現されている事象をどのように統一的な枠組みで理解することができるかが重要であると、わたしは考えています。