
土曜日、南門と戸塚駅とを結ぶバスに乗車したときのお話。
休日ダイヤでの運行だったので地域住民の方々と大学生とが相乗りする形になっていた。昼下がりのバスは奥に詰めないと乗車できない程度に混雑していた。
このバスの乗客からこんな話が聞こえてきた。
「学生のバス利用者が途中下車をするとき、道を譲ってくれない。」
「彼らにどうやって指摘するべきだろうか。」
確かこんな内容だったはずだ。
「あのバスでどう通り道を作れと」となる大学生の言い分もわかるし、学期間になるとやたらと混雑することで不便に感じる地域住民の方々の言い分も納得できるという複雑な問題に感じられる。
騒音問題
少し話は変わるが、騒音問題について考えてみよう。
最近は公園の子供の声がうるさい、道路の子供の声がうるさいなんていう声も聞かれる。
どこの誰だかわからない子供の話し声というのは遠くから聞こえてくるだけで耐え難いものなのだそうな。
核家族化が進行し、ついに親とその子供以外の人は赤の他人と線引されるようになった現代では、ほとんどの子供が「どこの誰だかわからない子供」に該当するのではないか。
これとは反対に、一般的には騒音と呼ばれる音に囲まれながらも、苦情が出ない事例もある。
地域住民との良好な関係を築くには、時間をかけて醸成された協力体制が必要だと言われている。
弊学の運動部が行っているスポーツゴミ拾いなど、地域協力・貢献活動は意義のあるものであろうと考えられる。
話がそれてしまったが、騒音によるトラブルというのは相手の顔が見えないことが大きな原因になる場合が多く、その解決には粘り強く地域との関わりを持つ取り組みが有効であるというのが結論だ。
どうやら見えないものはうるさく感じるけど、顔見知りの声はうるさくないと感じるのが人間の性らしい。
おわりに
その地域住民の方はこうもいっていた。
「彼らに声をかけてみるべきなのではないか。」
この一言にすべてが詰まっているように感じた。
また、私が学生のマナーに還元した議論をしなかったのには理由がある。
私が雨の中傘をささずに、スーツを着てバスを待っていたとき、傘を貸してくれた学生の存在が記憶に強く残っているからだ。
こういった類の問題は人と人との間で起こるものである以上、片方の気質として片付けずに、構造的に分析する視点があってもいいのかもしれない。
是非ともこの書籍を参考にしてみてほしい
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455710.html
「苦情社会の騒音トラブル学」