研究者代表 | 岡本多喜子 |
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研究者 | 小笠原祐次、中村律子 |
日本で最初に養老院の名称を用いた施設は、1895(明治28)年、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)に日本聖公会の信者によって設立された「聖ヒルダ養老院」であるといわれている。その後、明治期においてキリスト教の信仰に基づいた養老院の中で記録が残っている「神戸養老院」「前橋養老院」がある。本プロジェクトでは、これら3ヶ所の養老院の記録を中心に、各施設の設立者に視点を置いて、養老院設立の背景と明治期の日本全体の養老院の状況とを分析した。明治期の養老院数や施設名はいくつかの記録に記載されているが、資料によって養老院の数も名称も異なっている。1938(昭和13)年に全国養老事業協会から発刊された『全国養老事業調査(第二回)』には施設名、理事者名、住所、収容者数、職員数、宗教、施設概要、収容要件が掲載されている。この調査で明治期に設立されたとされているのは8施設で、宗教をキリスト教としている施設は上記の3施設であり、他は仏教系施設(天台宗、浄土真宗、天台宗、聖徳太子に基づく仏教、他は仏教とのみ記載)である。聖ヒルダ養老院は、宣教師のミス・ホアが助けた2名の老女を、ミス・ホアと香蘭女学院の教師をしていたミス・ソートンが協力して世話をしていたことをきっかけに設立された。ミス・ホアがイギリスに帰国したために、ミス・ソーントンがその後は中心となって養老院を継続していった。神戸養老院の設立者である寺島信恵については、当初は児童施設の設立を考えていたが、神戸には高齢者に関する施設がないことから養老院を設立した。その背景には、信恵の幼少期の経験も絡んでいた。信恵は新川時代の賀川の憧れの女性であり、養老院は賀川の活動とも係わっていた。前橋養老院の創設者はキリスト者であった宮内文作である。宮内文作の死後、後継者難であった養老院を引き受け、立て直した功労者がキリスト者であった田邊熊蔵である。