水谷史男(特別推進プロジェクト代表/調査研究部門主任)2015年6月1日
2014年度から社会学部付属研究所の調査研究部門として、社会学部のスタッフを中心に特別推進プロジェクトを開始しました。共通テーマは、東日本大震災を契機にこれからの日本社会が取り組むべき諸問題を、社会学・社会福祉学という視点から調査研究をおこなうという点にあります。それは、地震・津波・原発事故の直接の被災者・被害者が抱える問題、災害復旧・復興の実態や防災計画という問題だけにとどまらず、日本が今後どのような社会を作っていくのかという構想と展望にかかわる大きな問題につながっています。このプロジェクトとしては、これまでの研究成果を踏まえて、複合的な分析を試みつつ、実証的・理論的な成果を出していきたいと考えています。
研究テーマ:被災地域の復興計画
東日本大震災における津波被災地といっても,仙台平野のように高台が皆無な平野部における被災地もあれば,岩手県三陸沿岸のリアス式海岸のように,集落が湾ごとに分かれている被災地もあり,復興過程を一様に語ることはできない。
私たちは,岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里を中心に,釜石市から山田町までを定期的に訪問し,どのような合意形成過程を経てどのような復興計画が策定され,それがどのように実現されているのかを調べ,記録に残している。また,計画が変更された場合は,なぜそのような変更がなされたのか,それによって人々の日常生活にどのような変化が生じたのかも,記録するよう努めている。
津波で被災するということは,それまで平穏に暮らしていた地域社会が,日々の暮らしに恵みを与え続けてくれた海によって突如破壊されるということであり,街のそこここに蓄積していた個人的・集合的記憶が暴力的に剥ぎ取られることである。そして復興とは,更地を新たに開発することとは全く異なり,慣れ親しんだ地域社会の改変であり,大切にしてきた個人的・集合的記憶を消し去ることでもある。これまでの参与観察において,これらの事実の重さに思い至った。
吉里吉里では,砂浜を残すことを選んだが故に,例大祭のクライマックスにおける伝統芸能披露の舞台である天照御祖神社の石段の半分を,盛り土の下に埋没させざるを得ないこととなった。盛り土工事が始まる前年,個々の家の基礎が取り除かれ雑草が生い茂った地域社会を,例大祭の神輿の行列が渡御した。神社の石段との別れを惜しむように,人々は石段を舞台として伝統芸能を披露した。私たちは,祭りに寄り添い記録し,人々の思いをその揺れとともに記録した。
改変された地域社会には,新たな個人的・集合的記憶が埋め込まれ,新しい地域社会が形成されてゆく。その過程を記録し分析することによって,社会が「社会としての秩序」をどのように生み出すのかを考察したいと考えている。
写真1:新設された道路から見た天照御祖神社の石段
写真2:盛り土してできつつある住宅地からみた天照御祖神社
研究テーマ:低頻度大規模災害の倫理学
災害復興についての経済学的研究を瞥見すると、理論・実証共に「災害のダメージは基本的に一時的なものであり長期的・恒久的なダメージを残すものは案外少ない」との見解が有力である。こうした議論の前提としては「災害によって損なわれるものが基本的には人命や具体的な物財にとどまり、知識・技術のレベルには及ばない」という想定があると思われる。どれほど大規模であってもせいぜい一国が壊滅する程度の通常の災害であれば、全人類の共有財産としての知識・技術が不可逆的に損なわれることはない、と。
しかしながら近年の地球科学・宇宙科学の急速な進展は、一国レベルを超え、全人類社会自体の存亡が危機に瀕するような災害の頻度が案外と高いことを明らかにした。そのような場合には、先の前提もまた崩壊する可能性が高い。本研究ではそうした低頻度大規模災害に対する、一貫して合理的な政策指針を導きうる議論がどのようなものかについて、準備的な考察を行う。
研究テーマ:被災で明らかになった福祉施設の課題
社会福祉施設の管理者や職員が、東日本大震災の被災当時、どのような動きをしたのかを、岩手県大槌町吉里吉里地区と宮城県気仙沼市で聞き取り調査を実施している。これらの聞き取り調査から、平常時でも支援を必要としている方を利用者としている社会福祉施設で、被災直後、またその後の日々はどの施設でも大変な状況であった。入所施設においては、利用者に対しての安全で安心した生活を保証しながら職員や管理者がどのような行動をしていったのか、通所施設では、被災から利用者を家族のもとに返すまでの状況を検討していく。
避難所生活を送ることになった場合には、他の避難者との関係に困難が生じていることが、これまでにも明らかになっている。それは社会福祉施設側から見ての見解ではあるが、精神的なゆとりを無くした被災者との生活がいかに困難であるかという証拠でもある。
また今回の聞き取りの中からは、東北地方の沿岸部、漁業が地域の産業となっている中で生活を送っている人々の文化的な側面も浮かびあがってきている。職員の被災後の動きには、ジェンダーが大きく作用しているらしいことも見えてきている。それは社会福祉施設職員が周囲から専門職として見られているかどうかという点とも関係している。
特別推進プロジェクトでの研究としては、社会福祉施設が災害時にどのような期待を地域住民からなされているのか、具体的に地域住民の期待した対応ができたのか、社会福祉施設の使命として利用者の生活を守ることの困難さとそのための事前の訓練や意識啓発などについて、個々の事例を検討するなかで明らかにしていくことを目的としている。
職員・管理者ともに様々な葛藤のなかで、災害当初から過ごしている。その間のストレスコーピングについても検討していく。特に管理者の抱えるストレスは、管理者ゆえに誰にも話せないなかで、心身への悪影響も生じている。
研究テーマ:北海道南西沖地震の被災地・奥尻島における復興と教訓
私の班は、過疎が進行する中での奥尻島の被災と復興を振り返り、東日本大震災の復興のあり方を考える上で教訓になりうることを模索することである。
北海道奥尻島における過疎の進行は、多くの地方と同様に、昭和40年代から進行しつつある普遍的な現象の一つであった。そこに突如として北海道南西沖地震と大津波が襲い、島内では死者172人、不明者26人に加え、家屋や漁船等の甚大な被害を出した。1993年7月のことであり、東日本大震災を遡ること18年前のことであった。
この自然的大災害の復旧・復興事業は、これまでの過疎の進行にどのような影響を与えたのであろうか?おそらくこの点は東日本大震災による三陸海岸の被災地域と重なるものがあるであろう。ただし原発事故を伴った福島県の沿岸地域は、復興事業そのものが相当の制約を受けているので、奥尻島の経験は役に立たないと考えてよい。
さて昨年度の現地調査や事前の各種資料等により、現時点での奥尻島の復旧・復興事業の状況と課題は次のようであった。
第一に奥尻島ではいち早く復興事業に取り組み、早くも5年後の1998年には「完全復興」の宣言を出している。復興に関わる島民の合意形成の過程を具に分析する必要があろう。
第二に復旧・復興に関しては国と北海道から潤沢な財政支援があった。そしてより重要なことは全国から190億円にのぼる義援金が集まり、被災者個人の住宅や家財道具、あるいは生活の糧であった漁船や漁具など、個人の生活再建の支援が可能であったこと。
第三に津波対策として巨大な防潮堤が築かれたが、反面、観光資源としての景勝が損なわれ、また復興事業に伴う巨額の起債はその後の町財政を圧迫し、復興宣言以降の奥尻島の未来に影を落としている。
最後に、順調な復興はなされたが、過疎と高齢化の進行を食い止めることはできなかったという厳しい現実が今も続いている。
研究テーマ:被災住民の経験語りと復興過程で可視化した諸問題
東日本大震災をめぐって、発災直後の避難、復興期には、「つながり」や「絆」が強調され、実際にそれらが機能した事例がいくつも報告された。その一方でさらなる復興へと進む過程では、地域や職場においてこれまで「つながり」や「絆」の背後で不可視化されてきた、または見えているけれども重要性が認識されていなかったことの覆いがはがされ、むきだしになってきた。私たちは、東日本大震災からの復興にとっても次の災害に備えるためにも、今回の災害によって可視化された課題と社会問題について、調べ、記録し、考察する必要があると考える。そこで、私たちの班では、発災直後に何が起きたのか、住民たちはいかに生き延びたのか、復興への意見・思いなど、「つながり」や「絆」の中の「個」に照明をあてる。地域、職業、家族形態、住居、地域や家族における役割、年齢、ジェンダー、国籍、病気や障碍の有無など、異なる属性と震災の体験を有する人たちの語りを記録しながら、これからの日本社会が取り組むべき諸問題を抽出して、検討する作業を行っていきたい。
われわれは、それらに関する事例調査を重ね、他の公害問題、放射能汚染問題とも比較しながら、よりよい解決に向けた方策を考えようとしている。それらの調査は、別の研究組織、研究助成によるものが主体だが、本研究プロジェクトのなかでは、他の研究班の研究成果との情報交換などを通じて、とくに地域社会の再建に向けた社会関係やサポートのあり方について考察しようとしている。
写真1は、飯舘村で進行している除染の様子である(2015年5月)。村内にはこのように積み上げられたフレコンバッグの山(仮仮置き場)がいたるところ存在する。しかし、除染の効果は限定的で、除染したからと言って農業を再開できるわけではない。村には、変わり果てようとする風景と、自分たちが年月をかけて作ってきた田畑の土が厄介な廃棄物にされてしまったことにたいする戸惑いや怒りの声もある。
写真2は、再開された川内村の水田風景である(2014年7月)。川内村では帰村政策が進むが、若い世代を中心に半数近くは戻っていない。放射能、原発事故の再発、周辺の自治体が避難を続ける中で医療・教育・就職などの基盤が戻らないこと、農業の将来、避難生活での家族の分散、等、不安や課題は大きい。
これらを風化させず、また当事者だけの課題にしないことが求められている。
われわれの考えた研究課題は、大震災前から進行していた東北三陸地域の高齢化・人口減少・産業の衰退という傾向について、地域社会を担う住民を主体とした「活性化」の努力が、この大震災・津波による壊滅的ともいえる被害に、大きなダメージを受けながらもどのような対処をしているのか?を検討したい、というものである。それは、子細にみていくと各自治体・行政の対応、計画、施策がいろいろな形で異なっており、岩手、宮城、福島の沿岸・内陸という空間的・経済的条件の違いが反映していると考える。
さらに、震災前に行われた「地域力の再編」としての町村合併の効果が、この大震災の対処にどういう形で影響を与えているのかを、現地のさまざまな動向を見ていくことで比較できるのではないかと考えた。このような視点から、2014年度に三陸地域の津波被災地および福島原発事故の避難地域を中心に、予備的な現地調査・資料収集をおこなった。そこからみえてきたことは、三陸の津波被災地と宮城県仙台平野の都市近郊住宅地域、そして福島原発周辺地域では問題の質が大きく異なるだけでなく、四年という時間を経て、政府の復興施策を含め地域の再建にむけた自治体、住民、そして外からの支援にも相違や齟齬が顕在化しつつあるということである。
これからの研究課題として、災害復旧の第一段階が過ぎ、仮設住宅の撤去、復興支援や補償の段階的撤収、地域産業復興の模索、地域を担う次世代の育成などに、各地域がどのような構想を抱いているのか、またその実現可能性にとって決め手となることは何か?対象地域を絞って探っていこうと考えている。
講師:おしどりマコさん(吉本興業所属)
開催日時:2015年3月20日(金)
講演タイトル:原発事故とメディアと生活
原発事故発生直後から、東京での仕事の現場で少なからぬ人がどんどん西へ移動(避難)しているという事態を間近に見たというマコさん。何が起きているのか、ご自身の目と耳で直接確かめたいという気持ちで、漫才の相方であるケンさんと共に、東京電力および政府・東京電力統合対策室合同記者会見を継続して傍聴したり、福島県内を何度も訪れて住民の方々にお話を伺ったりする中で、報道されないこと、広報されている内容の矛盾点などに気づき、それを指摘してきました。講演会の直前に参加したドイツでの脱原発のための宗教者の会議についての報告も、具体的にお話しいただきました。参加者が予想していたよりも現実が怖い状況にあることと、何とかしようとする人々がいることへの希望を感じた勉強会でした。