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社会学部のあゆみ

ヘボン塾と明治学院大学

明治学院の歴史は、日本に宣教師としてやってきたJ.C.ヘボン博士が、1863(文久3)年に横浜に英学塾(ヘボン塾)を開いたことからスタートしています。中国での医療伝導に従事したあと、ニューヨークで開業医をしていたヘボン博士は、幕末、日本の開国を知ると、日本への渡航を決意、アメリカ長老派教会に宣教師としての派遣を志願しました。すでに開業医として名声を博していた博士が、病院も邸宅も別荘も売り払い、日本にやってきたのは1859年のことです。1861年春には神奈川の宗興寺に診療所を開設し多くの日本人患者を診察していますが、幕府の干渉を受け約5カ月で閉鎖。しかし、翌年には横浜居留地39番で医療活動を再開すると同時に、クララ夫人とともに若者たちの教育に携わります。これが明治学院の前身であるヘボン塾で、当時としては珍しい男女共学の塾でした。

世界への扉を開いたヘボン式ローマ字

パスポートなどでもおなじみの「ヘボン式ローマ字」は、ヘボン博士が考案したものです。幕末当時、ヘボン博士は 宣教師として布教活動、医療活動、教育活動に従事していますが、約9年の歳月をかけて1867年に日本初の本格的な和英・英和辞書『和英語林集成』を完成させています。「ヘボン式ローマ字」は、この『和英語林集成』の編纂をする際に、工夫・考案されたものなのです。幕末から明治へと日本の社会が激動する中、多くの若者が英語を通して自由な知の世界にふれ、欧米の先進文明を手本にすることができたのは、ひとえにヘボン博士のおかげだったといえるでしょう。

日本の発展を推進した人材を育成

後に蔵相となった高橋是清や三井財閥を支えた益田孝など、ヘボン塾からはその後の日本を動かした多くの人材が巣立っています。また、ヘボン博士のもとで西洋医学を学んだ見習いの中に、丸善の創業者でもある早矢仕有的がいました。明治学院となってからは、文豪・島崎藤村や日本の生活共同組合の基礎を築いた賀川豊彦などがいます。1949年に明治学院の教授に就任した賀川は、勤労学生に配慮して夜間の集中講義に力を注ぎ、報酬を全額、奨学金として提供するなど、ヘボン博士の精神を受け継ぎ、人々へのやさしい眼差しを持ち続けた人でした。このように、ヘボン塾と博士のもとには多くの人々が集まり、時代を背負い、日本の発展に貢献する有為な人材が次々と育っています。

ヘボン・スピリッツが現在も息づく社会学部

明治学院の歴史は、日本に宣教師としてやってきたJ.C.ヘボン博士が、1863(文久3)年に横浜に英学塾(ヘボン塾)を開いたことからスタートしています。 中国での医療伝導に従事したあと、ニューヨークで開業医をしていたヘボン博士は、幕末、日本の開国を知ると、日本への渡航を決意、アメリカ長老派教会に宣教師としての派遣を志願しました。すでに開業医として名声を博していた博士が、病院も邸宅も別荘も売り払い、日本にやってきたのは1859年のことです。1861年春には神奈川の宗興寺に診療所を開設し多くの日本人患者を診察していますが、幕府の干渉を受け約5カ月で閉鎖。しかし、翌年には横浜居留地39番で医療活動を再開すると同時に、クララ夫人とともに若者たちの教育に携わります。これが明治学院の前身であるヘボン塾で、当時としては珍しい男女共学の塾でした。