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岩永ゼミでは、3月にオデッサ大学とのオンライン交流会を行いました。
それについて、参加した学生からのエッセイが届きました。


「気まずさ」の先に
―ウクライーナ国立オデッサ大学との国際文化交流会を振り返って―
社会学科 岩永ゼミ4年 藤井理南子

 2021年3月23日の夕方、ウクライーナのオデッサ大学の学生との交流会が始まった。日本と6時間ほどの時差があるウクライーナは、まだ午前の授業が始まる前の時間だった。オンライン上のミーティングルームに、次から次へと学生が入室する。読み方すら分からないウクライーナ語の名前と、私たち日本人の名前が同じ画面上に並んでいるのを見て、不思議な感覚になった。私たちが1限の授業を受ける日のように、中にはほんの少し前に起床し、慌ててパソコンを開いて入室した学生もいるのだろうか。8000キロ以上離れた遠い国の学生たちを見て、そんなことを考えた。
 交流会全体の中で、最も印象的だったのは「気まずさ」だった。私たちの班が「日本の学生の恋愛観」についての発表を終え、ウクライーナの学生たちに質問を促した際、彼らが浮かべたあの微妙な表情は忘れられない。ある学生は視線を下げ、またある学生は気まずそうに微笑んでいる。それはまるで、授業中に自主的な発言を求められた際の、日本の大学生の表情のようだった。誰か他に発言しないだろうか、一番目に発言するのは嫌だな...そんな私自身も抱いた経験のある感情が伝わってきて、思わず笑ってしまいそうになった。とりわけ、今回のようにオンラインシステムを用いた交流の場では、自主的な発言のハードルが高い。主要メンバー以外はミュートにしていることが多いのに加え、非言語コミュニケーションの伝達が難しい画面上では、話し出すタイミングを掴むことが難しいからである。初めて対面する異国の学生に対する戸惑いもあったかもしれない。もちろん交流会が進んでいくと、中には積極的かつ自発的に日本語で質問や感想を伝えてくれる学生もいた。しかし、日本人の学生も含め、オンライン交流会に参加する学生の大部分は、やはり控えめな印象だった。
 ただし、ここで注意しておきたい点は、学びや交流に対しての意欲は十分に持っているということだ。私たち明治学院大学から参加した学生は、10人未満だったのに対し、オデッサ大学からは30人以上の学生が参加をしてくれた。朝早くからの交流会だったにもかかわらず、ここまでの大人数が関心を持って参加しているということだけでも、その学習意欲の高さを感じることが出来る。また、ウクライーナの学生が発表してくれたプレゼンテーションはどれも凝っており、内容も非常に興味深いものだった。ウクライーナの伝統的な市場やキリスト教、街並みについて、日本語を用いてコンテンツを作成することは、とても大変だったであろう。また、よくよく話してみれば、日本語が堪能で、日本に強い関心を抱いている学生はたくさんいる。学習に対する意欲や関心が、必ずしもオンライン上での積極的な姿勢に結びつくわけではない。聞いてみたいけど、気になるけど...といった関心と躊躇いが拮抗するもどかしさにも、親近感を感じざるを得なかった。
 ブレイクアウトルームへの移動後、5人程度での交流時間を設けた際にも、その「気まずさ」は変わらない。会話のテンポ感を掴むまでは、スムーズに会話は進まず、どうしても愛想笑いが増えてしまう。しかし、不思議な話であるが、こうした気まずい空気には不快さではなく、一種の安心感を覚えた。それは、見た目や言語、文化が全く違うように見えていた相手が、自分たちと同じような等身大の一人の学生に見えたからである。初めて相手を「ウクライーナ人」ではなく、一人の学生、一人の人間として見ることが出来たと言ってもいい。
 コロナ禍でオンラインミーティングが主流となって以降、オンライン上でのやりとりで生じる、こうした「気まずさ」は、解消すべき対象であるとされてきた。もちろん、次から次へと質問や意見が飛び交い、気兼ねなくスムーズに進む交流では、吸収することも多い。しかし、異文化交流や異文化理解という文脈においては、そうした交流だけが正解ではないのだと感じた。交流を行った3時間、私たちは「気まずさ」という一つの感情を共有した。同じ感情を共有することで、異国の相手を自分と同じ等身大の人間であると認識することも、同じくらい重要な感覚であるように思う。
 オンライン上での「気まずさ」に、国境を越えた親近感や共感を抱いてしまうとは、なんとも現代的だ。これは、今回のようなコロナ禍での交流会でなければ、得ることのできない経験であったに違いない。時間とミーティングのIDさえ示し合わせれば、物理的距離を越え、あっという間に異国の人々と交流を行える時代だ。そこに「気まずさ」が生じても、決して失敗ではない。その「気まずさ」こそ、異国の相手と自分を繋ぐ、初めの一歩であると思う。