2021年度 卒業式・修了式 祝辞
明治学院大学 社会学部長 大瀧 敦子
卒業生、修了生の皆さん、そして学生たちを今日まで支えてくださいました保証人の方々、本日はおめでとうございます。学部教員を代表いたしまして、お祝い申し上げます。
学生の皆さん方にとってのこの2年間は、何かにつけ我慢を強いられた時期であったと思います。
このような、不運としか言いようのない時期を過ごし、今、どの様な感慨を抱いているでしょうか?思う通りの学生生活ではなかった、本当は海外留学をしたかった等々、不満を挙げればきりがないかもしれません。
しかし、同じ経験をしてもそれらをどのように解釈し、そこから何を学び取るかは、人によって違います。不満や不運としてのみやり過ごしてしまわず、この経験を、これからの人生の糧としてもらいたいと思っています。
糧とするための一つのきっかけとして、卒業にあたり、是非一度「自己責任」という言葉について、深く考えてみてはどうでしょうか。
皆さんの世代は、様々な不運を「自己責任」という言葉で飲み込み、諦めがちな世代であると言われています。例えば、生まれた時の家庭環境は子供が選択できないことを「親ガチャ」といった言葉で表現していると聞きました。確かに、子供は家庭環境を選んで生まれてくるわけではありませんが、ゲームで決めたわけでもありません。また、環境によっては軽く扱える問題でないこともしばしばです。自分では選択できない以上、恵まれなければ不運と思い、その環境の下、自己責任で人生を生きていけという言外の意味を持つ、冷たい言葉として私には響きます。
コロナ禍のもとで、皆さんが大学生活を送らざるを得なかったことは、言うまでもなく自己責任、ではありません。避けようがなかったといえばそれまでですが、世界が、もう少しグローバル化に対し警戒心を持っていたならば、現状は少なからず違っていたかもしれません。また、日本社会のデジタル化がコロナ禍前にもっと進められていたならば、感染症対策はもちろん、大学生活も違ったものになっていたかもしれません。社会として振り返るべき側面はたくさんあります。
私が、この2年間で最も日本社会を憂慮したのは、公衆衛生対策が後手後手に回る中、個人の感染予防対策が過剰に強調され、連日報道でも繰り返された期間でした。三密、や、ソーシャルディスタンスといった印象的な用語が連呼される中、感染するのはあたかも個人の行動の過失であるかのような雰囲気がこの時期、醸し出されていると感じたからです。
落ち着いて考えれば、どんなに万全な対策をしても、感染することはありますし、個人の責任を問う問題ではないはずです。にもかかわらず、感染経路を知ることがイコール、予防という名目のもと、個人の行動に結びつけ報道される傾向は、他国と比し、日本社会では際立っていました。感染症拡大について、検査を徹底するなどの科学的手法を重視するのではなく、個別の行動やそれへの相互監視の中で解決しようとする姿勢は、過去の感染症問題への日本的対処法を彷彿とさせ、ある種の恐れも感じました。
この様に、安易な自己責任論はとても危険です。私たち一人一人を分断し、孤立させます。
人生には常に運不運、そして失敗が付きまとい、避けては通れませんし、時には間違いを犯してしまうのも人間です。こういった不運や失敗がもたらす弊害を少しでも減らし、支えあうために私たちは社会を形成しているといっても過言ではないでしょう。
明治学院大学社会学部で、社会学、社会福祉学を学んだ皆さんは、是非、人生で遭遇する出来事について、安易な自己責任論に陥ることなく、自分と他者の関係性、集団としての行動、社会としての対応法、そういった側面はどうであったか、どうあるべきかに立ち戻り、再考する姿勢を貫いてください。皆さん方の思考には、そういう素養がはぐくまれ、本日を迎えられたと、私は信じております。
皆さん方の今後の人生が、深く、そして実りの多いものであることを心からお祈り申し上げます。
本日はおめでとうございます。
2022年3月17日