明治学院大学

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社会学部

日々の社会学科

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【表現法演習】藤生明先生「自分史」エッセイを書く

 社会学科では、「メディアを使って『表現・実践する力』を身につける表現・実践関連科目」として、2年生以上が履修できる「表現法演習」(2024年度より「メディアクリエイティブ演習」に名称変更)を設置しています。

 過去の表現法演習の履修者には、新聞社やテレビ局、出版社に就職した卒業生もいます。
 今年度より当該科目を担当いただいている非常勤講師の藤生明先生(前朝日新聞編集委員)が、受講生に「自分史」のエッセイ「『自分』は自分か」を配布されました。
 藤生先生のご許可を得て、ここに公開します。
 これからのキャリアを模索する20歳前後の人たちに向けた、人生の大先輩からの暖かいメッセージとなっています。

*****「自分」は自分か*****

          藤生 明

 ジジ殺し。そう自覚したのは35歳頃だ。政治家や宗教家、民族派の長老格に交流の輪が広がっていた。取材スキルが急激にあがったのか、生来の体質かは定かでない。そんな卑近な例で恐縮だが、私が「自分さがし」に懐疑的な理由はそこにある。自分は年月で変わりもするし、無自覚の自分が奥底に眠っている場合もある。机上でさがした「自分」は自分なのか。ある程度、適性を判断したら学外でもまれてみよう。見知らぬ才能を引き出してくれる人や出来事に遭遇するかもしれない。
 卑近な例を続けよう。私が新聞社に入ったのは1991年だった。一般的に大手新聞社・通信社、NHKは新人を地方に配属し、事件を通じて取材のイロハを学ばせる。私の初任地は長崎市。天皇の戦争責任発言をめぐる長崎市長銃撃事件が前年から尾を引き、また、赴任した2カ月後には雲仙普賢岳の噴火で記者・住民ら計44人が死亡する大災害が起きた。たいへんな時に新たな一歩を踏み出した。
 働き始めてすぐに分かったのは自分の社交性欠如だった。新聞記者には朝に夜に警察官の自宅を回る「夜討ち朝駆け」という日課がある。日中は市内の警察署をまわり、副署長らと雑談する。ただ、話す材料が見つからない。同業他社の記者が刑事や公安、交通各課の人々と急速に懇意になっていく様子に焦燥した。私が記者に向いていないのは明らかだった。
 惨憺たるスタート。二年目のボーナスの査定は最低ランク80点だった。いま思えば、その所属長もとんでもない人だったが、固定電話しか通信手段はなく、横の連絡が乏しかった時代だ。その上司が異常なのか、判断する術がなかった。一方で、地方に散らばった同期入社の活躍が耳に入らなかった点は幸いだった。その頃の私には同僚の活躍を喜ぶ余裕はなかった。
 不快な現実から目をそらし、精神の安定を何とか保っていたのだと思う。心理学で習った「逃避」だ。長崎は炭鉱と造船、漁業で栄えた街で、当時、炭鉱じん肺という遅発性の職業病が社会問題になりつつあった。私はそれに飛びつき、記者としての居場所をみつけた。運がよかった。以後、筑豊、小倉、博多と三つの炭鉱町を渡り歩いた。

 2001年、東京に異動した。石原慎太郎ブームが起きていた。うだつの上がらない国会議員だった石原は怨嗟や差別心といった社会に漂うモヤモヤをすくいとって固形化し、大衆を駆り立てる一流のアジテーターだった。都知事になるや大化けし、首相待望論まで巻き起こった。その石原の取材を任された。政治資金の流れを追い、後援者をたどっていくと、右翼関係者が幾人も浮かび上がった。
 学生諸君には要らぬ知識とは思うが、任侠系右翼には全日本愛国者団体会議など、いくつかの全国組織が存在する。なんとその時期、三つの全国組織の各々の長に筑豊出身の親分たちが座っていた。また政界にも、右翼に隠然たる力をもつ村上正邦・元自民党参院議員会長という筑豊の元炭鉱労働者がいた。朝日の取材は珍しい上、筑豊の経験が好感されたようだ。彼らの事務所に日参した。
 ビジネス用語で、新市場を創造し事業開拓していく手法をブルー・オーシャン戦略と呼ぶ。一社独占だ。対して、レッド・オーシャンは競合社がひしめき、限られたパイを奪いあう激戦海域だ。報道の世界なら警視庁や首相官邸だろう。その点、右翼業界には記者クラブも定例会見もない。取材先で、他社と遭遇する程度で、朝日の同僚と鉢合わせになることはなかった。
 禁忌の領域へ嬉々として取材に行っていたわけで、「お前は右翼か」と誤解もされたが、専門分野ができて自信につながったし、派生してやりがいのある仕事も増えていった。入社10年が過ぎ、130人いた同期はすでにかなりの数がやめていた。幸か不幸か、私にはスペックが低いという自己認識があり、転職を思いとどまらせていた。やめなくてよかった。

 さて、話は私の学生時代、1980年代までさかのぼる。この頃、日本経済は絶頂期にあり、「仕事は食べるためだけが目的ではない。やりがいがなければ意味がない」という職業観への大転換が起きた。戦後日本の復興を支えた世代が1980年代までにほとんどリタイアし、女性の可能性を広げる男女雇用機会均等法も施行された。テレビをみれば、とんねるずを起用した就職情報誌のCM「やりがい」が話題をよび、学生たちは大いに影響された。
 新しいムーブメントが起きれば、対極には別の柱がたつ。レジャーブームと連動し、「仕事はそこそこに。趣味に生きようよ」という新しい生き方が輝きをもって語られてもいた。二つの主張を単純化すれば仕事か趣味かである。
 就職活動が大詰めだった春先、マスコミ塾に一緒に通っていた大学の友人が「趣味に生きるわ」と言って、鉄鋼業界に志望を変えた。日米貿易摩擦のただ中。自主規制の名の下、粗鋼生産量は通産省が鉄鋼各社に割り当てていて、業界内に競争はなかったのだ。ゆえに、ノンビリと安定した暮らしが送れると友人は考えた。ところが、長くは続かなかった。韓国などの新興国が勃興し、高炉の火が次々に消えた。余剰人員の「整理」にあたることになったのが、人事部所属の友人だった。
 ビスマルクの時代から「鉄は国家なり」、産業の王様だった。1970年、日本初の売上高1兆円を突破したのは新日鉄(現在の日本製鉄)。戦後復興期から高度成長期にかけての鉄鋼各社は学生にとって垂涎の的であり、余剰人員とされた人々は超難関を突破し入社してきたエリートだった。通告する場の人事部屋は荒れに荒れた。呪いの言葉はまだマシ。ソファーを抱え上げ、部屋を破壊して籠城する部長クラスまでいた。友人はノイローゼになり、会社を辞めた。
 「ダメ元でテレビを受けておけばよかったかな。安全パイ狙いで失敗したぁ」。後年、友人は力なく話していたが、学生だった私たちの目には日本の繁栄は続くと思えた。鉄鋼業界が傾き、証券・銀行が倒産すると予想できるはずもなかった。まして、父親ほど年齢の離れた人々の肩叩きする一員にさせられようとは思いもしなかっただろう。

 自分さがしと適職さがし・企業選びは正解が何かわからないという点で似ていると思う。先述のとおり、人には遅咲きもあるし狂い咲きもある。企業だって、社員としてある程度の期間を働いてみないことには適不適はわからない。そうであるならば、机上で悩むことに時間をかけるよりは、語学や資格、汎用性のあるスキルの習得に大切な時間を割きたい。同時に、積極的に学外にでていろんな人々にあなたのよさを引き出してもらってほしい。
   最近、深いなあ、と思う一節がある。《子曰、吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、矩踰》。高校で習ったはずだ。
「私は15歳で学問に志を立てた。30歳でその基礎ができ自立できた。40歳になると迷わなくなった。50歳で天が自分に与えた使命を自覚できた。60歳で人の言うことを素直に理解できるようになった。70歳になると、思うようにやっても人の道を踏み外すことがなくなった」
孔子の人生に私を重ねるのはおこがましいが、漢文の授業のテキストではなく、それを先哲の教えとして読めるようになった。歳をとった。
その点、みなさんは若い、発展途上である。くれぐれも、「自分」に拘泥することなきよう。

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